イラスト:大高郁子
喧嘩の絶えない家庭。はたまた会話すらない夫婦。それでも別れないのは世間体を気にしてか、経済的な事情か。そして、「あなたのため」という重い一言を背負う子どもの思いは――(「読者体験手記」より)

娘の幸せだけを願って、生きてきたのに

ミッション系の学校が、家族仲を重視するというのは本当だった。娘の通う小学校では、毎年、家族写真の提出を求められる。最初の年にカジュアルなスナップ写真を提出して大恥をかいてからは、写真館で撮影をするようにした。娘を挟んで立つ夫と私。ここに祖父母が加われば、「ファミリー」としてのポイントはより高まるらしいのだが、私の両親はすでに他界していたし、夫の両親には絶対加わってほしくなかった。

小学校受験の面接を控え、私たち夫婦を悩ませたのは、夫と私が別居していることを、学校側にどう伝えればよいかということだった。同居していた期間はごくわずかで、その後は夫の月に一度の通い婚、いわゆる「月末婚」が続いていた。

夫は、もともと私の主治医である。結婚に際し、私の両親は一人娘の私が遠方に住むことを嫌がったし、私の地元の大学病院に勤務していた夫は、故郷のK県には帰らない、この地で働き続けると約束してくれた。

しかし結婚後、息子を取られたという思いを強くした夫の両親が、開業資金をすべて出すからK県に帰って来いと夫に言い出したのだ。

当初、私も夫についてK県へ行ったが、そこでの暮らしは1年と持たなかった。法事の時、私が小ぶりな練り切りを用意したら、質実剛健の姑は、「こんな気取った菓子より大ぶりの徳用大福のほうがうまい」と文句を言う。私がほんの少し夫の肩に手を触れただけで、舅から「ふしだら」と大目玉を食らったこともある。

しまいには、「息子には、K県出身のよいところのお嬢さんをもらいたかった」「今からでも離婚してほしい」と夫の不在時に義父母から訴えられた。娘さえいなかったら、私だってとっくにそうしている。私は、娘の幸せだけを願って、この四半世紀を生きてきたつもりだ。