気づけば、家の台所でフライパンを振っていた
その後、愛媛新聞社が主催する俳句のカルチャー講座に、兼光さんは月に1度、生徒として大阪から通ってくるようになりました。その時点では彼もあくまで、私の俳句を読んで、「自分が作っていく俳句の方向性はこれだ」と感じたからなのだそうです。
当時の私は、松山に中古の一軒家を借りて暮らしていました。我が家がたまり場で、主宰する俳句集団「いつき組」の組員たちと編集会議や句会をした後、ご飯を食べてお酒を飲んで……。勝手に泊まっていく人が多かったので、朝起きたら、トイレの前に知らない誰かが寝転がっている、なんてこともしょっちゅう。そんな生活でしたから、いつしか兼光さんも松山に来ると、うちで飲んで、泊まるようになり……。気がついたら、我が家の台所でフライパンを振っていました。(笑)
その頃からなんとなく、兼光さんが私に対して将来のことを考え始めているなというのは、空気で感じていました。人から好かれるのは、嫌な気はしません。ただ、結婚なんて話になったら面倒くさいな、というのが本音。まぁ、老後のボーイフレンドとしておつきあいするだけならいいかな、くらいに思っていました。
当時、うちでは俳句が縁で知り合った10代後半の子どもを3人預かっていました。3人とも家庭に居づらかったり、精神的に問題を抱えていたりする子どもです。もともと教師をしていた私は、放っておけなかったんです。リストカットをする子もいて、時々、夜中にそういうことが起きてしまう。それを知った兼光さんは、松山じゅうの救急病院をすべて調べ、何かあったときにすぐ対処できるようにしてくれました。リストカットした子を、二人で病院に連れて行ったこともあります。
昼間は仕事をして、自分の子どもが2人いるうえ、よそ様の子どもを3人も預かり、夜は病院に連れて行く──普通だったら、そんな生活に巻き込まれるなんて、とんでもないと思うはずです。ところが彼は、人柄なのか、クリスチャンとしての考え方なのか、そういうことにまったく怖気づかなかった。それどころか積極的にかかわり、その子たちを一所懸命、気にかけてくれました。本当に心強かったですね。