歴史の中で〝最新〞を生きることは、私たちにたくさんの恩恵とともに軽やかな諦念をもたらす。世界のどこにも余白が残されていないような寄る辺なさを感じ、「これ以上良くなりようがないのだ」と、たいして良くもない現状を受け入れてしまう。なまじリアルタイムで鮮明な経験をしているために、俯瞰することが難しく、目の前の「しこり」や「モヤッ」とする気持ちを自分個人の責任だと思ってしまう。確かに、今のままでもまあ、私たちはそこそこ幸せなのかもしれない。「クズハの一生」の中で、クズハもそう考えていた。ちょっと引っかかるサゲでも、まあ、笑っちゃえるのかもしれない。いちいち突っ掛かって面倒臭い目に遭うくらいなら、笑っちゃっておいた方が楽なのかもしれない。

そんな諦めを蹴散らし、存在しないことにされている wild たちを手がかりに、ままならない世界をぽーんと飛び越えるのが『おばちゃんたちのいるところ』だ。

優しさとはサステナビリティ

ぽーんとジャンプすると、茂の心を慰めた不思議な職場のようにあいまいで、はっきりしないまま、自分を見てくれている誰かのまなざしに気づく。

本作に登場する「我が社」は謎の企業だ。事業も多岐にわたり、細やかなナレッジマネジメントでシナジーを生みパラダイムシフトを起こしている。全貌は全く分からないが、その業務はおおまかに捉えると「救済」全般である。寄り添い、サポートし、雇用を生み、社会との接点を提供し、会いたい人を思い出させ、性犯罪者を撃退し、子供を見守り、コミュニティを見守ってくれる。多くの登場人物たちがこの組織によって直接的または間接的に助けられる。自力でひっそりと、世界と接する角度を見つけ出してモノにしている人もいるが、そうでない人も何らかの救済措置を取られ、誰かに助けてもらっている。それを支えるのが「組織」であることに青子さんの優しさがある。

優しさとはサステナビリティである。救済を個人の視座に押し留めると、持続可能性は一気に目減りする。「エノキの一生」のエノキのように、少しばかり救済能力がある者に偶然の幸運が委ねられると、救済者本人の裁量として責任が圧し掛かり、いずれ疲弊してしまう。疲弊せずに救済を続けていける唯一の存在は「もっとなんか大きなもの」―社会―だけだ。私たちはそのために社会的な生き物をやっている。