「品が良い」とか「しなやかである」とか「じれったい」と断定する言葉は使われない。あくまで見つめている芳年の想像であること、ある種傲慢なまなざしであることが「○○そう」という言葉に表れている。と私は勝手に思っている。

「楽しそう」の三人も、はっきりと確かめないまま、憶測で断定しないまま、「多分、楽しそうだからいいか」とこっそり見つめ合っている。この三人に限らず私たちは全員、自分以外の人については「○○そう」ということしか分からない。だから「彼女ができること」の「彼ら」のように、けしからんですなあ、などと訳知り顔で、「彼女」をジャッジすることは許されない。

だけど祈ることはできる。どうか今もどこかに、今だからこそどこかに、楽しそうなおばちゃんたちが「いて」くれますように。銭湯でも、リビングでも、風呂でも、寝室でも、社員食堂でも、仏間でも、山でも、キャバレークラブでも、静かな寺務所でも、雑誌の一ページでも、花のソファーでも、オフィスでも、ベッドの上でも、会社のパントリーでも、誰もいない境内でも、デートスポットでも、街を見下ろす天守閣でもいい。wildなあなたがそこにいてくれれば、あいまいな、はっきりしない、でも見逃してはいけないこの感情を持って、最新の現実をぽーんと飛び越えることができるから。