「知る人ぞ知る存在」に留まっている理由

この武将は歴史番組では度々取りあげられており、《歴史通》の中にはファンも決して少なくないのだが、残念なことに一般にはあまり知られていない。

立花宗茂は、《独眼龍》伊達政宗や人気の高い真田幸村(正しくは信繁)と同じ生年=《花の永禄十年(一五六七)組》であった。

東北地方を代表した政宗や戦国最後の戦である大坂の陣で活躍した幸村と異なって、宗茂は活躍の年齢が比較的若く、場所も綺羅星の如く群雄が割拠した九州―─日本史では、やや西に寄りすぎている―─が主戦場であり、奇跡的な大勝利をおさめたのが目下、一般にタブー視されがちな朝鮮出兵=文禄・慶長の役であったことから、どうもその力量を正当に評価されていないきらいがあった。

しかし、その将才・軍才は群を抜いていた。生涯不敗伝説の中でも、とくに次の三つは日本史を通観しても重大であったと言える。

■不敗伝説その一 対島津軍

まず一つは、島津氏の大軍を支えた戦い。

宗茂は、九州制覇に最も早く王手をかけた豊後(現・大分県の大半)の大名・大友宗麟(おおともそうりん)の家臣であり、養父・戸次道雪、実父・高橋紹運、実弟・高橋統増(むねます のち立花直次)と共に、筑前(現・福岡県北西部)の守備についていたのだが、ここへ大友軍を耳川の合戦で大敗させた強豪・島津軍が、全九州支配を目指して北上戦を敢行してくる。

詳しくは『立花宗茂――戦国「最強」の武将』に記したが、群がり攻め来る島津五万余騎の猛攻を、宗茂は四千余人を率いて籠城戦を行い、みごと守り抜いた。

豊臣秀吉の軍勢が九州入りするまで持ちこたえ、反撃にまで打って出ている。五万余騎を千五百で進撃し、軍功をあげていた。

もしも、秀吉軍が到着する前に、島津軍が宗茂の立花山城(立花城とも。現・福岡県福岡市東区、糟屋郡新宮町・久山町にまたがる)を陥していれば、島津軍はおそらく全九州制覇を成し遂げ、秀吉の九州征伐に際しても、結果として九州の半分程度を領有することになった可能性は高かった。そのため秀吉は宗茂を「その忠義、鎮西(九州)一、その剛勇、また鎮西一」と激賞したとされる。

『立花宗茂 戦国「最強」の武将』(著:加来耕三 中公新書ラクレ 1月8日刊行予定)