《コロナ禍》と宗茂

筆者はこのおりの宗茂の心境について、勝手ながら、このたびの新型コロナウイルス感染症の流行、世界的規模の感染爆発による拡散の中で、日常生活を突然奪われた現代人と同じではなかったか、と考えている。

人は誰しも、片目で未来をとらえながら──これからの予定を考えながら──、日々の生活を営んでいる。ところがときに、日常に組み込まれていたはずの未来が、突然、消えてしまうことがある。予定の一つや二つが中止になるのならばまだいい。何の前ぶれもなく、すべてが消えてしまったのが《コロナ禍》であった。

令和二年四月には、日本でも「緊急事態宣言」が発令され、経済活動・社会生活にも多大な制限が加えられ、その損失規模はリーマン・ショック、バブル経済崩壊を超え、昭和四年(一九二九)に発生した《世界恐慌》に匹敵する、とまでいわれている。

多くの人々は、「一日も早く、コロナの前に戻れるように―─」と心から祈っていることであろう。だが、酷なことをいうようだが、それはあり得ないことである。

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「同じ川に二度入ることはできない」といった。川は絶えず流れている。今日、足を浸した川の水は、明日は流れ去ってもはやない。

関ヶ原敗戦後の宗茂も同断、何一つ、彼に落ち度はなかったにもかかわらず、友軍の関ヶ原大敗により、宗茂は豊臣秀吉から拝領した筑後柳河の領地(十三万二千余石)を家康に取りあげられてしまう。

決戦の場にいた西軍の大谷吉継は自死、一旦は戦線を離脱した主将の三成、 小西行長、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は刑場の露と消えた。すべてを失って浪々の身となった宗茂は、《コロナ禍》に見まわれたわれわれ日本人と同じではあるまいか。