中華人民共和国の「盲腸」

簡単に答えを書こう。中国致公党とは、「民主党派」と呼ばれる、合計8組織ある中国共産党の衛星政党のひとつなのだ。中国の政治体制は、正確には一党独裁ではなく一党専制であり、民主党派は一種の閣外協力政党のような存在(参政党)である。

彼らの由来は1949年の中華人民共和国の建国前夜にさかのぼる。

当時、毛沢東が提唱した新民主主義論を掲げていた中国共産党は、中国国民党との第二次国共内戦(1946-49年)を戦うなかで「民主的」(反国民党的)な中間党派と提携し、リベラルな連合政府を樹立する戦略を取った。このときに統一戦線を組んだ諸勢力こそ、現在まで続く民主党派8政党の起源である。

ゆえに民主党派には、国民党の左派で孫文未亡人の宋慶齢を名誉主席に戴いた中国国民党革命委員会(民革)をはじめ、かつての有力な中間党派だった中国民主同盟(民盟)、親共産主義的な台湾出身者を中心にした台湾民主自治同盟(台盟)など、1949年当時の政治状況を反映した党派が多い。表向きは愛国華僑の政党とされる中国致公党も、そのひとつである。

中国致公党の創始者の一人とされる司徒美堂。アメリカ東海岸の華僑の親分だったが国民党と仲違い、中華人民共和国の建国直前に共産党に協力した。『人民日報図文数拠庫』より(http://data.people.com.cn/rmrb/20190813/14

 

その後、政権を握った中国共産党は間もなく新民主主義論を放棄し、民主党派は反右派闘争や文化大革命で大打撃を受けて独自性を失うのだが、さておき組織だけは現在まで残っている。全人代や政治協商会議(中国の国会に相当)の開催期間にテレビを見ていると、彼らの党名がたまに報じられることがある。

前時代の有力勢力が、新政府の体制下でも盲腸のように残される構図は、日本の江戸幕府のもとで足利氏や今川氏の子孫が「高家」(こうけ)として存続していたのとすこし近いかもしれない。現体制の歴史的正当性をアピールするうえで、旧勢力の末裔たちをあえて名目的に残しておくことは有効な手段なのだ。