「ときは今、天が下知る五月哉」の本意

5月27日、光秀は亀山から愛宕山へ参籠し、神前にて愛宕社太郎坊御前で二度、三度籤(くじ)を引いたという。翌28日には里村紹巴、同昌叱、愛宕社威徳院行祐らが参席するなか、有名な「ときは今、天が下知る五月哉(さつきかな)」という光秀の発句に始まる連歌が興行された。連歌は前の句を受け止めて、次席の者が景色や雰囲気を連ねて詠んでいくものであり、光秀の発句に対しても、同じように続けられた。

現在の愛宕神社(写真提供:写真AC)

しかしこの『愛宕百韻』は、本能寺の変の直前ということもあり、この事件と絡めて考察されてきた。すなわち、古来より「とき」=土岐明智氏を掛け、本能寺の変を決意した句として喧伝されてきた。のちに秀吉の御伽衆となる大村由己の『惟任退治記』なども、そのように解釈をしている。

一方で、愛宕社は勝軍菩薩地蔵を祀っており、光秀の愛宕社参詣は当然ながら中国攻めの戦勝祈願であった。『愛宕百韻』もその一環であり、毛利氏の討伐によって「天が下知る」とは、天下が治まるに掛けていると言われている。注意深い彼が公の場で心中を明かしたとは考えにくい。当時光秀が信長に対する謀反の発意を連歌に託したとする議論はやや飛躍していよう。むしろ、第三者に対して、信長に忠実に仕えようとする「装い」を貫いたと思われる。なお、この日のうちに光秀は亀山へ帰城している。

亀山城は丹波支配の拠点であり、坂本城と並ぶ居城の一つである。丹波攻略では遊軍を配置するなど、軍事に特化した拠点であった。まさしく、この地から中国攻めの助勢が進められることになるはずだった。ところが6月1日夜、光秀は城内において「逆心を企て」、明智秀満(演:間宮祥太朗)、同次右衛門、藤田伝五(演:徳重聡)、斎藤利三(演:須藤貴匡)といった重臣たちを集め、信長を倒して「天下の主となるべき調儀を究め」たという。史料上は、ここで初めて「謀反」の発意を表明し、「天下の主となる」と述べたことになる。