討つのは信長?家康?
本来ならば、中国攻めは西進するため、丹波から播磨へ抜ける三草越え(兵庫県加東市)へ向かう予定であった。ところが、これを引き返し「東向きに馬首を並べ」たという。そして「諸卒」には亀山から東の老ノ坂を越えて、南下して大山崎(京都府大山崎町)から摂津国地へ出兵する旨を説明した。
こうした突然の行き先変更に兵たちも訝(いぶか)しく感じたに違いない。フロイス『日本史』には「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(徳川家康/演:風間俊介)を殺すつもりであろうと考えた」と記している。
一方、本能寺の変に従軍していた丹波の武士・本城惣右衛門はやはり家康の上洛を意識して、これを討つためと認識していた。少なくとも兵たちの間では、家康を討つという噂が広がっていたことになる。
そして、本能寺襲撃へ
本城惣右衛門らは、本能寺の南の堀際を東向きに進み、その橋の際にいた織田方の者の首を取り、門を開いて寺内へ突入した。北から入った明智秀満が首は討ち捨てだと言ったため、獲得した首を堂の下へ投げ入れたという。
このように明智軍は本能寺を取り巻き、その四方から乱入した。当初、本能寺にいた信長側近たちは、突然の騒ぎに喧嘩が始まったものと認識した。しかし、鬨(とき)の声が響き、鉄砲が撃ち込まれたことで、事態の深刻さに震撼した。信長が森蘭丸(演:板垣瑞生)に「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」と聞くと、蘭丸は「明智が者と見え申し候」と答えた。信長は「是非に及ばず」と応じ、小姓たちとともに応戦した。