「本能寺の変」はなぜ起こったか
明智光秀が、なぜ信長に離反し、襲撃したか、その原因について多くの研究者が意見を述べてきた。一般的に、江戸時代まで信長に対する怨恨説が幅を利かせていた。しかし、こうした怨恨説の根拠は、二次史料が大半であり、到底信用できない。一方で光秀も天下を欲したからだという野望説が語られた。これに対して、変の直前に信長が光秀を足蹴にしたという記述などが改めて重視され、再び怨恨説がクローズアップされていく。
その後、1990年代に、光秀の背後に信長暗殺を画策したグループがいると考える黒幕説が登場する。これについては、当時信長と朝廷との緊張関係から、それによる光秀への働きかけを重視する朝廷関与説(桐野作人氏、立花京子氏)、備後鞆浦(とものうら)において、絶えず入洛を画策していた足利義昭が、幕府人脈をもとに光秀を動かした義昭関与説(藤田達生氏)なども現れた。
これらの議論は、その後も変遷し、イエズス会が信長抹殺を図ったとする南欧勢力黒幕説(立花京子氏)、大坂退城後、本願寺教如が関係したという意見も出ている(小泉義博氏)。これらの議論については、実証的な立場から批判、検討がされている(谷口克広『検証 本能寺の変』)。
ただ、こうした議論のなかで義昭関与説については、その後の史料の博捜によって、方向性が修正され、いわゆる信長による四国政策の変更とそれに関する派閥間抗争いう形で結実しつつある。すなわち、信長による対長宗我部元親の外交関係が、光秀から秀吉(演:佐々木蔵之介)へと移行したことが、部将間の派閥抗争を先鋭化させたという展開である。