光秀は前々から信長の弱点を知っていた

天正10年(1582)5月というぎりぎりの段階まで、明智家の家臣・斎藤利三が元親との交渉に当たっていたことも確認されており、翌6月というのは、長宗我部氏らにとって、信長と正面から対決する緊迫した状況であった。したがって、黒幕説のように光秀にとって他律的に捉えるのではなく、織田家の内在する外交問題や織田家部将間の緊張から考察していく必要が出てきた。

そうした際、改めて大事になってくるのが、光秀が本能寺の変を敢行し、信長と信忠を自害に追い込むことができた要因である。

これは、やはり彼が部将でありつつも、信長の側近であり続けていたこと、そして京都についての情報網や知識を得ていたこと、さらに坂本城や亀山城のように京都を挟んだ立地に拠点を持っていたことが大きく作用したであろう。

元亀4年(1573)の義昭追放時、光秀が信長に対して吉田山に「御屋敷」を構築するよう進言したことが想起されよう。これは、京都が権力者にとって決して安全な場ではないことを認識していたからにほかならない。光秀は前々から信長の弱点を知っていたのである。