小学校5年生のとき、父親が再婚

父親は岡山の貧しい村の出身で、若いころ満州に渡り、現地で結婚して男の子をもうけました。満州で徴兵され、終戦で親子3人引き揚げて来る船の中で、奥さんが病気で亡くなります。子どもはまだ小さくて足手まといだったので(←想像ですが)親戚の養子にして、頼まれ仕事をしているうちに母親と知り合い、父親は男手のいない末井家の婿養子になりました。

母親のダイナマイト心中は、父親にとってかなりショックだったと思います。勤めていた鉱山にも行かなくなり、家でごろごろしている頼りない父親になってしまいました。

ぼくが小学校5年生のとき、父親は再婚しました。ぼくはその人をお母さんとなかなか呼べなくて、1年ぐらいはオバサンと呼んでいました。父親より1つ年上の寡黙な人で、自分の過去のことは一切話さず、一人黙々と山仕事をしていました。

父親は雑貨の行商をしたり、町の食堂で働いたりしていましたが、出稼ぎに行ったほうが稼げるということで、川崎の大きな工場で派遣労働者として働くようになりました。僕は高校を卒業して、大阪の工場に就職したのですが、そこの労働環境がひどかったので、逃げるようにして川崎に来て、父親と同じ会社で働いていたことがあります。

父親はしばらくして岡山に帰り、山奥の家は売り払って、町に出て町営住宅を借りて夫婦2人で年金と軍人恩給で暮らしていましたが、いつ頃からか義母がおかしくなり、ぶつぶつ独り言を言ったり、首吊り用の縄を作ったり、ふらふら歩き回ったりするようになりました。夜中に火を燃やしたりするので、父親は義母を病院に入れました。

しばらくすると、父親は寂しくなって、病院に行って義母を引き取ろうとするのですが許可が出ません。仕方なく病院の目を盗んで義母を連れ出し、背負って逃げ帰ったりしていたようです。しばらくすると面倒臭くなって、また病院に入れるというようなことを繰り返していました。

ぼくが何年か振りに父親に会いに行った時、義母は退院していました。しかし治っていないようで、ぼくが持って行った土産の饅頭を「毒が入っとる!」と喚いてぼくにぶつけました。それは、ぼくが義母を母としてではなく、どこか他人を見るような目で見て来たことの報いだったかもしれません。