「アイドル路線」を生み出して

――酒井さんは1935年に和歌山県で生まれた。大学進学を機に上京し、卒業後は松竹に就職。大の映画好きだった酒井さんには夢の職場となるはずだったが、折悪しく映画産業の斜陽と重なる。そこで日本コロムビアに文芸部員(ディレクター)として転職し、歌謡曲の世界に身を置くこととなった。


私がコロムビアに就職した61年当時のスターといえば、美空ひばりさんや村田英雄さん。つまり歌謡曲のメインは演歌だったのです。ただし「演歌」という言葉が生まれたのは、68年頃だと思います。

66年に作家の五木寛之さんが音楽業界を舞台にした『艶歌(えんか)』という小説を発表し、話題を呼びました。作中で演歌は「人々の恨みや哀しみをしっとりとした曲調に乗せて歌う」と定義づけられていた。そこから歌謡曲は「演歌」と「流行歌」に区別されたのだと、少なくとも私はそう認識しています。

当時、日本の音楽シーンは過渡期を迎えていたのでしょう。66年にビートルズが来日し、日本にGD(グループサウンズ)ブームが到来して……。そんななか、私は「アイドル」と「メディア」という二つの路線の確立に必死でした。

まず「アイドル」についてですが、私が設立直後のCBS・ソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に転職した68年当時、若い世代の歌は「ヤングポップス」、その歌手は「歌う青春スター」と呼ばれていました。

「なんだかピンとこないなぁ」と思っていたところ、40年代にフランク・シナトラがデビューした時に「アイドル作戦」なるものが繰り広げられたという話を、アメリカ出張中に同業者から聞いたのです。IDOLとはラテン語のIDOLAが語源で、「偶像」や「憧れ」といった意味だと知り、なるほど、いい言葉だと。

帰国後にさっそく、わが社でもアイドル作戦を展開しようと提案したのですが、反対が多くて……(笑)。それでも強引に「アイドル戦略」と銘打って南沙織さん、天地真理さん、郷ひろみさん、浅田美代子さん、山口百恵さんなどのプロデュースを手掛けたところ、次々と反響があった。気づけば「アイドル」という言葉が広く浸透していました。

アイドルの売り出し方にはいろいろなケースがあります。たとえば南沙織さんの時は、「わたしの城下町」でデビューしていた小柳ルミ子さんを追う立場になるわけです。南沙織さんは、沖縄帰りの音楽関係者が「沖縄に16歳の素晴らしい女の子がいたんですよ」と一枚の写真を見せてくれたのがきっかけで出会えた。そこには黒髪の知的な少女が微笑んでいて、ふと潮の香りを嗅いだようでした。

小柳さんは堂々とした「陸」のイメージでしたので、南さんは「海」をイメージしたシングル「17才」でデビュー。そして、知人から紹介された天地真理さんは、軽やかな「空」のイメージで、「水色の恋」でデビューしました。

彼女たちは「三人娘」と呼ばれ、大スターへの階段を駆け上ります。南沙織さんは78年、24歳で芸能界を鮮やかに引退しました。その後、写真家の篠山紀信さんと結婚したのは、みなさまもよくご存じですね。