人が敷いてくれた道を歩くのは性格に合わない
なんとか家を出て、一人で暮らしていけるようにしなくてはと考え、女学校時代のお習字の先生が「あなたはいつでもひとかどの書家になれますよ」と言っていたので、まあ、とにかくご飯が食べられればいいと、一軒家を借りて、お習字を教え始めました。
要は、戦前の古いしきたりに嫌気がさして、とにかく自分は自分で生きてさえいければ、何も無理して結婚しなくてもいいと思ったから、書道の先生を始めた。そして暮らせるようになった、ということです。
そしたらそのうちに戦争になり、疎開した先で結核を患いました。戦争が終わり、九死に一生を得て東京に戻ると、私は30代でした。
その後は、自分が感じるものを好きに表したい、という思いのほうが強まり、書の世界から出ました。書には、約束事や規制がどうしたってあります。たとえば、川という字はタテ三本の線と決まっています。でも私は、川を表すのに、何もタテ三本でなくても、好きなように線を引きたかった。字はあくまでも伝達の道具ですから、約束事の範囲内でやらなくてはなりません。自らを書から解放することで、私は墨を用いた抽象表現という新しいジャンルを切り拓いていきました。その頃の心境は、高村光太郎の詩「道程」と同じです。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
高村光太郎さんのような天才的な詩人は、自分の後に道ができるという自負があったのでしょう。私の後に道などありません。でも、私の前に道がなかったことは事実です。一人でずっとやってきました。
私はわがままだから、人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような人生は、自分の性格には合わないからしようがない。手探りで生きていくしかない、と思っていました。