どれだけ長く生きても真理はつかめない
2017年、私は『一〇三歳になってわかったこと』を上梓しました。そして19年は『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』を出版しましたが、その僅か2年のあいだでも、103歳の時にはなかった新しい発見を得て、記述しました。衰えるということは悪いこととは限りません。
たとえば、お皿一枚にしても、若い時はこういうお皿だと思っていたのが、歳を取ったらまた別の面白さを同じお皿から見出すようになります。若い時には気がつかなかったけれど、このお皿には面白い点もある、と老いて初めて発見するのです。歳を取らないと見えてこない。
あるいは、私は極端に暑さに弱く、夏は山中湖村で過ごしています。そこで咲く草花を毎年見ていますが、ああこの草花にはこういう美しさがあったのだと、これまでとは違ったアングルで見るようになりました。
歳を取るというのは、一応は悲しむべきことなのでしょう。しかし、悲しむ一点だけではない。小さな草花にもこういう美しさがあったのだと、初めて得られる喜びがあります。歳を取ってみなければ、気がつかなかった、ということは出てきます。
特に人間関係はそうですね。あの人はああいう人だと、それまでずっと思っていたのに、初めてその人の良さに気づく。人に対して、そう簡単にいいとか悪いとか決められない。判断のつかないことだったのだなと改めて思います。
普段の食べものだって、美味しいと思っていたものが、ある歳になると、脂っこく感じたり、味を濃く感じたりして、美味しいとは思わなくなることはありますよね。
価値観というものは、相対的なものです。若い時にいいと思い、今もいいと思えるものもありますが、今になって、やっと良さがわかるというものもあります。常に変わるものです。
真理というものは人の知恵ではとてもつかめない。どれだけ長く生きようが、おそらく会得できないものなのではないでしょうか。