勤務していた、築地場外にある「斉藤水産」で

友は料理、上手だよ

実家にいれば誰かしらおいしいごはんをつくってくれて、どんなに忙しくても家のことは完璧な母のおかげで、居心地は最高。黙っていても洗濯物は畳まれて出てくるし、二日酔いで寝ていても薬や飲み物はベッドまで届く(笑)。そんな私を見かねたのか、30歳の手前でいよいよ実家を追い出されてしまいました。

その頃、ひょんなことから知人が、小冊子にレシピを書いてみないか、と声をかけてきました。「栗原はるみの娘だったら、できるでしょう」というわけです(笑)。母に相談すると、「絶対向いてるから、やってみなよ」と背中を押されました。それまで、自分が料理が得意だとも、それを仕事にしようとも考えたことはなかったので、母の「友は料理、上手だよ」という言葉がなければ、いまの私はないと思います。

最初はアルバイトもしながら、雑誌でレシピ紹介をしたり、企業の商品開発に携わったり。料理家としての仕事は順調に進んでいきました。ところがある現場で、鮮魚をさばくことになって。当時の私は魚をさばくのが大の苦手だったので、その場にいた料理上手なスタッフが代わってくれました。

でも、「あの栗原はるみの娘が魚もさばけない」と思われたに違いない、と考えると悔しかったし、恥ずかしかった。このままではいけないと一念発起し、築地場外の水産会社で働くことを決めました。36歳のときでした。

牡蠣の殻剥きやまかないづくりから始まり、自宅でも魚をさばいて猛特訓。だんだん店頭の魚もさばかせてもらえるようになりました。同時に、あらゆる魚についての知識、おいしい食べ方も身につけられたのです。魚は家庭でもっと気軽に楽しめる。その啓蒙をしていきたい、といういまの仕事の道筋もできました。