生きる方向に舵を切るしかない瞬間

泉は、いじめる女子たちが通りそうな、学校周辺の駅のホームで死ぬのは嫌だと考える。だからこの電車でもう少し遠くまで行ってから死のうと思う。しかしそこに葉山先生は現れる。そして泉の状況も知らずにビデオを貸す。(ふたりは映画好きという共通点を持っており、泉はよく葉山先生の好きなビデオを借りていたのだ)

この、さりげない場面設定が、次に効いてくる! 泉は、ああもう学校に行くしかないと絶望しながら、それでも葉山先生と電車に乗る。

泉はひとりで電車に乗るつもりだった。しかし、葉山先生がホームに現れたことで、ふたりで電車に乗ることになる。

死ぬつもりでひとり乗る予定だった電車は、葉山先生の登場によって、もう生きるつもりで乗るしかない、ふたりの電車に変わるのだ。

そして泉は気づく。私は葉山先生のことが好きなのだ、と。

……この流れ、あまりに美しいと思いませんか。もう、ふたりで乗ることになる電車のドアが開く瞬間なんか、読んでいるこちらも泣きそうになる。電車に乗り込む瞬間、それは泉が生きる方向に舵を切るしかない瞬間なのである。

直感的に、ああこの電車に乗るしかないと絶望しながら、それでもその電車に乗ることを選ぶ泉は、生きることを決める。

ちなみに凡庸な作家だと、ここまでは描けても、この時点での葉山先生を「すでに好きな人(葉山先生)」という設定にしそうなもんである。だって好きかどうかわからない相手がホームに現れたって、上記のような展開になるとは思えんじゃないか。それよりは好きな相手が現れたほうがよっぽど説得力が出そうだ。