『婦人公論』6月8日号の表紙に登場した岸惠子さん

二者択一の覚悟を決めて卵を割る

『岸惠子自伝』の副題にしたように、「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」。居心地のよい生活を壊してでも、未知の世界に踏み入ってみろ。というフランスの諺(ことわざ)なのだ。

私はこれまでの人生で、3回、慣れ親しんだ卵を《えいッ》とばかりに割った。

その1回目が、1957年の5月1日なのだった。

ニッポンという恋しい祖国や、両親や、日本映画という私の生き甲斐である大事な卵をポンと割って、医師であり、映画監督でもあるイヴ・シァンピ氏一人を頼りに、身一つで祖国を去りフランスはパリに行った。24歳の時だった。

その頃の日本は海外旅行が自由化されていなくて、自分のお金で飛行機の切符さえ買えなかった。すべてをイヴ・シァンピ監督がギャランティ(保証)してくれての旅立ちだった。二度と日本へは帰ることが出来ないかもしれない、というほどの覚悟だった。

彼との出会いは、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』への出演。

私より11歳年上だった彼は、第二次世界大戦の末期には医科大学の学生。ナチス・ドイツに占領されていたパリから、ロンドンへ亡命していたドゥ・ゴール将軍の「自由フランス」の合言葉に共鳴して12人の医科大学生と一緒に地下運動に入り、大勢の負傷者を救って沢山の勲章をもらった医師でもあった。

彼には、戦争をかいくぐってきた人の、強靭な静かさがあった。