「時間どろぼう団」に抗って
『モモ』に忘れられない一節がある。ついに子どもたちに効率化の影響が及び始めたとき、モモは友だちに遊んでもらえなくなる。そのときの会話だ。
* * *
「ねえ、またきてよ! まえにはいつもきてくれてたじゃないの。」
「まえにはね!」パオロがこたえました。「でもいまは、なにもかも変わっちゃったんだ。もうぼくたち、時間をむだにできないのさ。」
(中略)
「で、これからどこに行くの?」
「遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ。」フランコがこたえました。
(中略)
「そんなのがおもしろいの?」モモはいぶかしそうにききました。
「そういうことは問題じゃないのよ。」マリアがおどおどして言いました。「それは口にしちゃいけないことなの。」
「じゃ、なにがいったい問題なの?」
「将来の役にたつってことさ。」パオロがこたえました。
(『モモ』ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年)
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「そんなのがおもしろいの?」「それは口にしちゃいけないことなの。」―「何にも縛られない癒しの時間」の過ごし方を教える情報に囲まれている私たちには、なかなかできない会話だ。
こども食堂は、そんな現代社会で広がってきた。こども食堂は、無縁に抗ってつながりをつくる場、「疎」に抗って「密」をつくる場だと、著者は『つながり続ける こども食堂』で述べた。
加えてこども食堂には「時間どろぼう団」に抗って「生きた時間」を取り戻そうとする場だという側面もある。子どもが思い切り遊べる場、大人も肩肘張らずにいられる場、それを人々は居場所と総称してきた。
居場所とは、いわばモモとパオロたちがともに遊べる空間だ。こども食堂はそれを全国に増殖させ続けている。つながり、密、生きた時間……こども食堂が問うものは、広くて大きい。