学生時代から鶴来の戯曲を読み、彼の舞台に心酔して、大学卒業後にオーディションを受けた。バイトをしながら劇団と鶴来の活動の手伝いに明け暮れた二十代が、もうずっと遠いことのように思える。聖子は同じ大学の同期で、早苗の出演がない舞台にも声をかければ来てくれた親友だった。「私には難しいから、意味がわかんないところが多かったけど」と微笑みながら、「でもなんか雰囲気がいいよね」と素直な感想を聞かせてくれる彼女のことが、早苗は昔から好きだった。
 しかし、女優、と呼ばれていたのはもう十年以上前のことで、今の自分は三十八歳の主婦だ。
 聖子に「女優をしていた」と話されるのは、恥ずかしさを通り越して申し訳ないような気持ちになる。世間一般で言う「女優」は、演技をする女性というより、大きな芸能事務所に所属し、テレビや雑誌、広告に多く登場して場を飾る美しい人たちを指すのが普通だろう。そんな華やかさは自分にはない。
 しかし、食堂の常連である鈑金屋の社長たちは、それでも「へえ」と感心したような声を上げ、「ほんで、べっぴんさんながやね」とか、「そう言うたらテレビで観たことがある気がする」と言い出した。
 現役で舞台に立っていた二十代の頃でさえ、早苗がテレビに出たことは一度しかない。それも、主宰の鶴来の活動に密着したニュース番組が稽古風景をちらりと映した際に画面に映り込んだ、というだけのものだ。彼らが自分をテレビで観たはずなどない。しかし、その後に「あれに出ちょららった? 二時間サスペンスの」「いや、朝ドラで見た気がするけんど」と続ける彼らの態度は、適当に言っているだけなのだろうけれど、新入りの自分に好意的なもので、そのおおらかさに救われる思いがした。
 女優さん、と早苗を呼ぶのも親しみを込めてのことなのだ。
「今日は何にしますか?」
 前の客が残した料理を片付けながら問いかける。「俺はね……」と机の上に立てられたメニューを眺める各々の注文をメモに取らなくてもだいたい覚えられるようになってきたのも、早苗にとっては大きな進歩だ。
 注文を聞き終え、厨房に向かおうとしたところで、ふと、早苗の足が止まった。
 見慣れない男が階段を上がってきて、食堂の入り口に立っていたのだ。
「いらっしゃいませー」
 姿に気づいたらしい聖子が、早苗の後ろで彼に呼びかける。
 男に目が留まったのは、この時間に新規の一人客が珍しかったからだ。しかも畏まった印象のジャケットを羽織っている。観光客には見えなかった。
 男が食堂の中を、入り口からぐるりと見回す。早苗と一瞬、目が合った。深い意味なく、早苗は咄嗟に小さく会釈した。
 男の顔に見覚えはなかったが、ひょっとすると、覚えていないだけで、前に来た客だったろうか。早苗は再び会釈して、厨房に引っ込んだ。
「こちらへどうぞー」
 聖子が男を席に案内する。男はどうやらすんなりと席に座ったようだ。聖子が彼から注文を取る声が聞こえる。
「はい。天ぷらそば、定食で一つ」
 鈑金屋の社長たちが頼んだ料理ができてくる。

 早苗は両手に盆を抱えて常連客たちのもとへ「はい、お待ちどおさまでした」と料理を運んでいく。全員分を運び終え、戻ろうとした時、ふいに後ろから呼ばれた。
「本条早苗さん」
 はっきりと名前を呼ばれ、早苗は驚きながら振り返る。一人で入ってきた、あのジャケットの男が立ち上がって、早苗を見ていた。
 知らない顔だ──と思ったばかりだった。しかし、常連でもない客が自分の名前を知っているはずがない。男と目が合う。その途端、心臓が重たく、鈍い音で鳴った。割烹着の中で、腕と背中が一瞬で汗をかく。
 男が近づいてくる。そばで見ると、目つきが非常に鋭く、顔立ちに、ある種の凄味が滲んでいるのがわかった。どうして入り口で見た時にすぐにわからなかったのだろうと思うほど、男がこの場でただ一人、違う雰囲気をまとっているのがわかる。
 高知に来てからは、誰ひとりまとっていなかった緊張感のある空気は、東京で早苗が曝され、逃げてきたものだったはずだ。
 考えすぎかもしれない、違うかもしれない──。
 望みをかけるように、引きつった唇や頬が男に向けて愛想笑いを浮かべようとする。しかし、男が言った。
「エルシープロの者です」
 その名前を聞いた途端に背筋をぞわっと寒気が走った。不器用に作った愛想笑いが凍りつくのが自分でわかった。
 男が早苗を見下ろす目は冷たかった。
「高知には、旦那さんは一緒に来ていないんですか?」
 そう、聞かれた。

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