女に見まがう美少年におそいかかった弁慶

私がこの話をはじめて聞いたのは、まだおさなかったころである。10歳には、なっていなかったろう。親におしえてもらったのか、絵本で読んだのか。その記憶は、あいまいである。だが、弁慶を男らしいと思ったことは、おぼえている。

はじめ、弁慶は牛若丸を女の子だと誤認した。そのため、手をだすことは、ひかえている。いどみかかったのは、相手を男子とみとめてからであった。そこに、10歳未満の私は、男としての矜恃らしい何かを感じている。

弁慶は野盗である。悪いやつだ。だが、女の子をやっつけようとはしていない。たたかう気になったのは、通行人が男だとわかってからであった。その点は、いさぎよい。悪者かもしれないが、ひきょうなやつではなかった。これが、私の最初にいだいた弁慶像である。

しかし、思春期をむかえ、性にめざめてからは、見方がかわってきた。

牛若丸と弁慶の遭遇伝説は、こうなっている。人気のない夜道で、男がひとり歩きの少女、じつは少年を見かけた。女子だと思いこんでいるあいだは、関心をしめさない。だが、男子だと見ぬいてからは、標的にしてしまう。この筋立てに、私は疑問をいだきだしたのである。

夜の追い剥ぎなら、たいてい少女のほうをくみふせようとするだろう。物取りとしても、女子を相手にするほうがらくそうに思える。なのに、少年だとわかってからおそうのは、どうしてか。

牛若丸は女の子になりすましていた。その偽装に最初、弁慶は気づけていない。牛若丸の女装は、それだけ完成度が高かった。つまり、この伝説は女に見まがう美少年として、牛若丸のことを登場させていたのである。

女と見まがう牛若丸のイメージは、20世紀になってもたもたれた。少年クラブ『風雲児義経』(沙羅双樹・文、山口将吉郎・絵)昭和29年4月号

そんな美童に、弁慶はとびかかった。少女だと思っていたあいだは、やりすごしていたのに。おのずと、私はうたがうようになる。弁慶はゲイの人だったんじゃあないのか、と。

私じしんは、ありふれた女好きである。異性愛者だと言うしかない。美しい男にも、恋心はいだいてこなかった。美男子を、女の人にもてそうでうらやましいと感じることは、今なおあるが。

ただ、はやくから、稲垣足穂(いながき・たるほ)が書いた『少年愛の美学』は読んでいた。竹宮恵子や萩尾望都らの、少年愛を主題としたマンガにも興じている。そういう世界があることも、知識としてはわきまえていた。読書では、背のびをする中学生であり、高校生だったと思う。そして、そのころから弁慶を少年愛の人だと、うけとめるようになった。