江戸中期に伝統的な男色観は、くずれだしていた?

ひとつの仮説を、しめしておく。

日本の男色には、大きくわけて四つの型があった。まず、僧侶と稚児で、これがいちばん古い。つづいて、大名と小姓(こしょう)の関係があげられる。武士どうしの義兄弟という契りも、はずせない。商家に丁稚(でっち)奉公の寵童が、ままいたことも、そういう型のひとつとしてしめせよう。

前二者では、主が従者である美少年をかわいがることになる。商人の場合でも、ランクの低い丁稚が、もっぱら愛される側へまわっていた。兄弟の契りでは、先輩格の兄貴が弟分の美少年をいつくしんでいる。若い少年のほうが上位へくるパターンは、存在しなかった。

いや、愛する側のほうが格下となる例だって、さがせばあるかもしれない。ほかにも、今あげた四つの型でくくりきれないケースは、散見するだろう。しかし、それらに類型としての文化的な厚みを見いだすのは、困難である。伝統的な衆道(しゅうどう)の文化では、愛される少年のほうが下位へ位置づけられやすかった。従者、従業員、もしくは後輩に。

「引札類 牛若丸と弁慶」出典:京都国立博物館/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B2798-120?locale=ja

だが、『義経知緒記』や『麓の色』は言う。美しい牛若丸を見て、弁慶は相手をうやまい主人にまつりあげた。そして、年長の自分は家来におさまっている。まだ若い美童の軍門に下る途を、えらんでいた、と。のみならず、世間にもそんな見方はでまわっていたというのである。

ひょっとしたら、江戸中期に伝統的な男色観は、くずれだしていたのかもしれない。牛若丸のような美童のほうが、リーダーになる。そんな逆転の構図が浮上したのも、かつての男色観が衰退したせいではないか。

江戸時代の性愛事情にくわしい氏家幹人が、こんな男色史の見取図をえがいている。

「江戸時代の史料を見るかぎりでは、ほぼ十八世紀(江戸中期)を境に男色風俗が衰えていったという印象は、どうしても拭いきれないのである」(『武士道とエロス』1995年)

主従の主が愛するほうにまわる。年長の兄貴が弟分をめでる。氏家の言う「男色風俗」の「衰え」は、こういう伝統の衰弱もともなっただろう。そのため、江戸中期にはおりめただしい男色のありかたが、ぼやけだす。

「義経ノ窈窕(ミヤビヤカ)」に弁慶は「随仕」した。「牛若丸美少年」の「麾下に属」してしまう。そんな18世紀からの牛若丸像や弁慶像を、男色文化の隆盛に関連づけるべきではない。事態は、むしろ逆である。正統的な「男色風俗が衰え」たからこそ、そういう解釈もうかんだのだと考える。

あくまでも、仮説である。ぜったいにそうだと、きめつけはしない。美少年がリーダーとしてかつがれる。そんな伝説が浮上したのも、なにほどかは同性愛を肯定する文化的背景のせいだろう。しかし、日本の伝統的な男色文化とは、どこかで切れている。私には、そう思えてならないのである。

※次回の配信は8月11日(水)予定です