昔の日本には、男色の文化がいきづいていた

たとえば、『義経知緒記(よしつねちしょき)』という本がある。書き手はわからない。おそくとも、1703(元禄16)年までには、まとめられたとされている。義経の伝記らしい話を、ひろくおさめた読みものである。なかに、こうある。

五条橋の勝負で、弁慶は屈服させられた。だから、忠勤をつくすようになったと、いっぱんには言われている。しかし、べつの説もある。「義経ノ窈窕(ミヤビヤカ)ナルヲ思ヒテ弁慶随仕シタル共云リ」(『軍記物語研究叢書 第四巻』2005年)。美しくたおやかな姿にしびれ、従属をきめた。そう解されてもいる、と。

つかえた理由は、義経の容姿にある「共云(トモイへ)リ」。そう著者は、書いている。著者だけの、とっぴな説ではない。ほかの人も言っているという書きぶりに、なっていた。18世紀の初頭には、こういう解釈のひろがっていた様子が、読みとれる。

あとひとつ、『麓(ふもと)の色』(飯袋子撰 1768年)も、紹介しておこう。風俗史の著述で、「巻五」には「男色」という項目がある。そこでは、牛若丸と弁慶の主従関係が、こう解釈されていた。「牛若丸美少年の名あり、西塔の弁慶これに愛て、麾下(きか)に属せしといへり……」(『近世文芸叢書 第一〇』1911年)。

牛若丸の指揮下にはいったのは、その美少年ぶりを「愛」したせいだという。その認識は、この本でも伝聞説としてしめされた。世間もそう言っているのだ、と。私が10歳台のなかばにたどりついた着想も、その根は江戸期にあったらしい。

こう書けば、あるいはつぎのように思われようか。昔の日本には、男色の文化がいきづいていた。人と人の絆に、男どうしの愛を読む。それも、以前なら、ごくありふれた考えかただったのではないか、と。

だが、両者の間柄をめぐるこういう説明は、18世紀になるまで見いだせない。男色の記録じたいは、記紀万葉のころからある。室町時代には、少年愛の文芸もひろまっていた。だが、義経にたいする弁慶の愛を論じた言及は、でてこない。私の目にとまった範囲では、『義経知緒記』が最初の例となる。

牛若丸が、鞍馬寺の僧にかわいがられる稚児(ちご)だったという話は、古くからある。室町時代から、流布している。鞍馬山の天狗に愛されたということも、しばしば語られてきた。やはり、同じように室町時代から。

しかし、弁慶の忠誠心を美少年への執着だとする指摘は、そんなに古くない。ようやく、18世紀になってから普及した。けっこう新しい指摘なのである。ならば、どうしてその読み解きは、世にあらわれるのがおくれたのだろう。