弁慶は、なぜ義経の家来になったのか
五条橋で、弁慶は薙刀を牛若丸につきつける。だが、牛若丸は橋のそこかしこへとびはね、身をかわした。その軽やかさに、弁慶はうっとりする。美貌だけではなく、舞いを見せるような身のこなしにも、心をつかまれた。
この子のうごきを、もっと見つづけたい。こころゆくまで、堪能することはできまいか。そう念じた弁慶は、へとへとになるまで薙刀をふりつづける。牛若丸にはあたらないよう、気づかって。
以上のような妄想を、五条橋の弁慶に投影したこともある。この構図で歴史小説が書けないかと、もくろんだりもした。ちょっと早目のBL(ボーイズラブ)文芸を、脳裏へよぎらせたのである。1970年代前半のことであった。まあ、勉強のつらさから逃避するための、異世界幻想でしかなかったのだけれども。
弁慶が義経にどうつかえたのかは、何もわかっていない。弁慶の名は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、しるされている。だから、実在はしたのだろうと、みなされてきた。だが、その働きぶりは不明である。大半の弁慶にかかわる話は、空想的な物語の域をでない。
弁慶が牛若丸の容色に、まいっていたかどうか。この問いかけも、歴史的な事実をめぐる検証の俎上(そじょう)には、のりえない。弁慶と牛若丸の伝説は、どう読めるのか。あくまでも、そういう水準の設問であるにとどまる。
そのことをことわったうえで、話をすすめよう。弁慶は、なぜ牛若丸、義経の家来になったのか。じつは、江戸時代のなかごろから、しばしば言われてきた。牛若丸の美しさに、ほれこんだせいではないのか、と。