初のオリンピックでものすごいプレッシャーを感じて
射撃は撃った時に自分自身の体にすごい衝撃があると聞いていました。でも初めて銃を撃った時、音はすごいものでしたが、ソフトボールでそれまで培ってきたものが生きたせいか、衝撃は想像していたほどではありませんでした。初めてお皿が割れた時の喜びは、今も鮮明に覚えています。
1997年に日立建機に入社する際は、オリンピック出場を目指すことが大前提でした。当初は04年のアテネ大会が目標でしたが、99年のワールドカップでオリンピックの出場枠を獲得し、2000年のシドニーオリンピックに出場することになったのです。
それまで戦歴が浅いなか、競技会では毎回ファイナルに残るなど成績が良く、恐れ知らずのところがありました。ところがオリンピック半年前のプレオリンピックで優勝したことで、急に恐怖に襲われたのです。半年後のオリンピックでメダルが獲れなかったらどうしよう、経験が浅いのに自分のペースを保てるのかと、ものすごいプレッシャーを感じて。結果は予選落ちで、苦い思いを味わいました。
シドニーの後、一度競技を離れ、2002年に結婚して娘を授かりましたが、娘が1歳の時に離婚。再度競技にチャレンジしたいという想いが強くなり復帰しました。
娘を育てながら競技を続ける苦悩
当時も今も、女性のアスリートが子どもを産み、子育てしながら競技を続けるのは、決して簡単なことではありません。私の場合、両親や会社の理解やサポートがなければ難しかったと思います。子どもが小さい頃はさみしい思いもさせました。「行かないで」と泣いているのを何度も何度も振り切って遠征に行くこともあり、両親に預けている安心感はあれど、やはり常に後ろめたさはありましたね。
08年の北京オリンピックのとき、娘は小学校1年生でしたが、ママと離れたくないという気持ちが強かったようです。「次のロンドンオリンピックが終わったら、もうやめてね」と言っていました。ところがロンドンオリンピックが終わり、10歳になっていた娘に「続けていい?」と聞いたら、「ぜったいにやめないで!」。
この4年間にはいいことばかりじゃなく、つらいことや苦しいこともあったけれど、そのプロセスを娘はしっかり見ていてくれた。私たち母子にとって、オリンピックは自分たちを成長させるものなのかな、と感じた瞬間でした。だから次の4年間もめげずにやってみようと思えたんです。