2020年4月に大学生になった娘の芽生さん(右)と中山さん(写真提供:日立建機)

娘が小さい頃は、練習場に連れて行き、退屈しないように工夫して遊ばせたりしました。射撃場の場長の許可のもとで、一輪車や自転車に乗るなど、成長とともに射撃場での過ごし方も変化しました。小中学生の時は、夏休みや冬休みの宿題も射撃場でやったり、書き初めも毎年射撃場で。

娘は小学5年生からソフトボールを始め、中学3年の夏までは部活動が休みの時にキャッチボールや素振りなどもしていました。射台に入っている時だけ、背後にいる娘のことは完全に忘れて集中するんです。合間に自分のトレーニングをしていました。苦肉の策とはいえ、子育てがよいトレーニングになったのでしょうね。

リオオリンピックの後、大学院に進学したのも集中力の賜物かもしれません。私はもともと希望していた大学進学をやめて就職し、競技の道に進みましたが、将来的に指導者になることを考えた時に、理論的に説明する言葉を持っていない。

将来のことを視野に入れると、戦歴だけでなく、学ぶ経験も必要と考えました。40歳までに修士号を取ろうと決意し、リオの後に「やるなら今だ!」と。社会人向けの枠で、順天堂大学大学院に入学した時、39歳でした。

専攻はスポーツ健康科学。小笠原悦子教授のもと、スポーツマネジメントについて幅広く学び、スポーツ分野の女性活躍について研究しました。特にクレー射撃の女子選手を対象としたコーチングやキャリア選択の可能性について、ライフワーク、障壁、環境、サポートなど日本はもちろん海外での動向なども調査しました。

大学院に通い始めると、「24時間あっても足りないって、こういうことか」と突き付けられる日々。当初は論文を書いたり文献を読んだりするノウハウすらなかったですし、週3回、片道2時間半かけて都心まで通い――授業が始まるのは18時。終わって家に帰ると夜中の0時をまわっているし、課題もやらなくちゃいけない。

翌朝は早い時間から高校に通う娘のお弁当も作っていました。もちろん、練習を休むわけにもいきません。そのため頭が真っ白になり、今自分が何をやっているのかわからなくなることもありました。

でも、自分を追い込む習慣はついていたので、今日は論文を書くと決めたら、5~6時間くらいぶっ通しで書き続けたりも。教授からは、集中力が半端ではないと言っていただきました。4回オリンピックに出るのも大変ですが、2年間、競技、子育てをしながら学業をやり遂げ、修士号を取得できたことは、よい励みになりました。競技と違う分野でがんばれたことは、自信につながったと思います。