今注目の書籍を評者が紹介。今回取り上げるのは『ブラック・チェンバー・ミュージック』(阿部和重著/毎日新聞出版)。評者は編集者で文芸評論家の仲俣暁生さんです。

映画を巡って繰り広げられる華やかな物語

朝鮮半島をめぐる政治的緊張を背景に、北朝鮮国家指導部による工作が日本国内で動き出す。きっかけは「トランプ大統領の隠し子」を名乗る人物で、そのエージェントとして密かに入国した女、通称「ハナコ」は「金有羅」なる人物が書いたヒッチコック論の翻訳原稿を探し求めている。なぜならそれは、国家首脳の継承問題にかかわる暗号文だからだ。

前科もちで業界から干され仕事を失った中年の映像作家・横口健二は、ヤバい筋から頼まれたその探索を金に困って引き受ける。だがそのタイムリミットはわずか3日後なのだ。この活劇はそんな設定で始まる。

映画をめぐる小説だけに、登場人物も華やかだ。エージェントとなる謎めいた女「ハナコ」が主演女優なら、コアな映画ファンに崇拝される古本屋の女主人、熊倉リサが助演女優だ。「反体制女子」たるリサは、追い詰められた横口とハナコを古書店のあるビル内にひそかに匿う。そこはどのような国家の陰謀からも自由な「避難所」なのだといわんばかりに。

ハナコやリサのほかにも味のある女たちが活躍する。人目を避けて歌舞伎町のカラオケ店で交渉を重ねる北と南の情報当局者はどちらも若い女性で、密談中には持ち寄ったチョコレートを食べるのがお約束。彼女らの間にも小さな友情が芽生えかけ、国家上層部での動きとは別のところで、卑小な存在である個々の登場人物たちの心は揺れ動く。その連鎖が最終的に横口とハナコを窮地から救うのだ。

著名な映画監督と一字違いの主人公の名前が示すとおり、この物語ははっきりとコメディである。手に汗握る場面もあるが、読者はただただリラックスしてこの活劇を楽しめばよい。