「息子の報告に茫然とした」と語る関本雅子さん

「肺がんだ」と一目でわかった

剛さんは19年夏頃から咳き込むことが増えていた。小児喘息の経験があり、成人後も空気の悪い場所では咳き込みやすいのであまり気にしなかったが、妻が心配するので10月3日、胃カメラの外勤の仕事に通っている六甲病院で知り合いの医師に胸部CTを撮影してもらった。そこで、放射線技師と一緒に写真を見た瞬間、頭が真っ白になる。

腫瘍は胸膜に達し、一部無気肺を起こして肺門リンパ節が膨れていた。「肺がんだ」。一目でわかった。職業柄、同じような写真を数多く見てきたからだ。「何かの間違い」に望みを託し「これ本当に僕の写真ですか?」と尋ねた。だが事実は冷厳だった。写真の隅には紛れもなく「関本剛」の文字があった。

数日後、妻の運転で神戸市立医療センター中央市民病院(以下、中央市民病院)へ行きMRIを撮る。放射線科読影医(CTやMRIなどの画像診断をする医師)のカルテには「大脳、小脳、脳幹への多発転移」とあった。肺がんの脳転移は2、3ヵ月で死に至ることもある。抗がん剤治療での「生存期間中央値」は「全存期間」で2年と知った。
要は、余命2年だ。

妻に「ステージ4や。もう手術どころではない。ごめん」と謝った。
妻は「どうして……、あなたは何も悪いことしてないのに」と泣き崩れ、二人は誰もいない面談室で号泣した。

しかし、うなだれている時間は短く、剛さんはすぐに顔を上げたのだ。真っ先に考えたのは、自分がこの世を去った後、子どもたちが大学を卒業するまで経済的に困窮しないか、だった。

「契約している生命保険などを確認し、これから必要となる医療費は自力で稼ぎ、現有資産に手をつけさえしなければなんとかなるかな、と思えるようになり、少し気持ちが楽になりました」

とはいえ、高額な医療費を捻出するには働くしかない。

「医師を目指していた時から、生業にしたいと思っていた緩和ケアの分野で働けているのだから恵まれている。頑張って働こうと思いました」