弁慶と義経の物語は、御伽(おとぎ)草子の『弁慶物語』にもしるされている。そして、この読み物は、対決の場所を三ヵ所あげていた。北野天満宮、法勝寺、そして清水寺の三地点である。さらに、第四の場所も、最終的な決着地としてもちだした。「五条の橋の真中」が、それであるという(『新日本古典文学大系 55』1992年)。

能の『橋弁慶』は、五条橋以外の決闘地をしめさない。「京の五条の橋の上」と、近代の唱歌はうたいあげている。あの光景は、『橋弁慶』にねざしているようである。

『弁慶物語』や『橋弁慶』の成り立ちは、藪のなかにある。いつ、誰が、どうしあげたのかは、たどれない。室町時代の作品だということだけが、今はわかっている。

後世の文芸は、たたかいの場所を五条橋へかぎるようになっていく。『橋弁慶』の舞台設定ばかりを、語りついでいった。『橋弁慶』は能の演目である。ひんぱんに、上演されてきた。そのつみかさねが、多くの日本人に五条橋を強く印象づけたのかもしれない。

「能人形 牛若・弁慶」(森川杜園作、明治時代19世紀、木造 彩色) 能「橋弁慶」を主題にした奈良人形。伝統的な奈良一刀彫による人形だが、弁慶の衣裳などに見られる極彩色による表現は、杜園が独自に展開したものである。出典:東京国立博物館/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-874?locale=ja

しかし、『義経記』も今にいたるまで、読まれてきた。この物語がしめす清水寺や五条天神も、のちのちまで伝承されて、よかったはずである。にもかかわらず、後へつづく時代は五条橋を特権化していった。この橋が清水寺と五条天神の中間点に位置したことは、やはり大きな意味をもったのか。

あとひとつ、橋という場所そのものが物語を生みやすいことも、あなどれまい。とりわけ、出会いと別れに関するそれは、しばしば橋を舞台にくりひろげられてきた。詳述はさけるが、弁慶と義経に関しても、その象徴的な機能ははたらいたのだと思う。