息子さんとの暮らしや思い出を綴ったエッセイを刊行することになったマリさん。そのために撮りためた写真を見直しましたが、幼い頃の息子さんを撮ったものが少ししか残っていないことに気づき――(文・写真=ヤマザキマリ)

記憶や思い出を残そうという執着がない

今月、息子との世界数ヵ所における暮らしを綴ったエッセイが刊行されるにあたり、カバーのデザイン用に彼が幼かった頃の写真を参考にしようと探してみたところ、手元にはほんの数枚しか残されていないことに気がついた。しかもそれらは友人や知人が撮ったものばかりで、動画やビデオとなると存在すらしていない。私は子どもの成長記録をほとんど残していなかった。

カメラが一般に普及していなかった時代の話ではない。傍からみれば愛情不足もはなはだしい親に見えるかもしれないが、そもそも私には過去の記録や思い出を極力残しておきたいという執着がない。

油絵を描いていた時期も、作品が出来上がってしまうとさっさと欲しい人にあげてしまっていた。数年前、久々にリスボンの家に戻った時には、仕事部屋に残っていた漫画道具を一切合切捨ててしまった。『テルマエ ・ロマエ』を描いていた頃の楽しさと、ヒットしてからのつらさが、引き出しの中に澱のように溜まっている気がして耐えられなくなったからだ。

物理的な思い出にこだわらなくても、残るべき記憶は無意識にでも頭の中に刻印されるものだと思うようになったのは、ノマドのように世界を転々とする人生を送ってきた影響もあるのだろう。とにかく、あらゆる記憶を無理やり思い出そうとする意欲が私にはない。

にもかかわらず、息子のことをエッセイにした理由は、彼が世界中で向き合ってきた特異な経験を整理してみたくなったからだ。写真は残さないが文には綴りたくなる。