義経は女装作戦も辞さない戦士へと変貌した

女のふりをして、強盗たちをゆだんさせよう。そんな計画を、はじめから遮那王がいだいていたわけではない。だが、結果的にその美しさは、彼らの気をゆるませている。相手の警戒心をとくことに、一定の効果をおさめていた。

自分を遊女だと誤認して、その場を通過する。そんな侵入者たちに、遮那王はおそいかかっている。みごとな剣さばきも披露した。斬りかかられた相手の頭目も、思わず口走っている。「女かと思ひたれば、世に剛なる人にてありける」か、と(同前)。

けっきょく、遮那王は盗賊の首領を斬りすてた。副将格の男も、たおしている。意図的な女装作戦で、勝利をつかんだわけではない。しかし、その決着は、敵に女だと誤認される過程をへたうえで、もたらされた。

『義経記』の義経は、清水寺で弁慶をやりこめている。そのさいは、作為的に女装をこころみた。弁慶をとまどわせる手だてとして、女物の衣服をまとっている。

鏡の宿で、女となることの効用を、ぐうぜん発見した。そこでついた知恵を、弁慶とのいさかいにも応用したのだと、『義経記』は書いていない。しかし、武闘の前に女と思わせる姿を見せている点で、ふたつのエピソードはつうじあう。対弁慶戦までに、義経は女装作戦も辞さない戦士へと変貌した。そう読みとく余地はある。

「『牛若図会』五條のはし千人ぎり」(歌川広重・画)Image via Art Institute of Chicago 

少年が女になりすまし、敵と対峙する。女装で、相手が注意をおこたるようにしむけ、寝首をかく。そんな若い英雄の話は、記紀にも書きとめられている。クマソの首長を亡き者としたヤマトタケルの物語が、それである。

『義紀記』の牛若、遮那王にも、これとひびきあうところがある。ヤマトタケル伝説の変化形めいた一面が、ないではない。そのことは、のちにヤマトタケルを論じるところで、あらためてふりかえる。

その前に、今いちど『義経記』の記述を検討しておこう。この作品は、くりかえすが、物語のそこかしこで、主人公を美化していた。とりわけ、その前半でさまざまな登場人物に、言わせている。牛若はきれいだ。遮那王には、うっとりさせられる、と。楊貴妃をしのばせる少年としてさえ、えがいていた。だが、物語の後半には、そんな人物設定をうらぎる叙述も、顔をだす。