信長登場前後で朝廷や幕府の権威に対する考えは一変
――『叛鬼』は、応仁の乱より早く15世紀の中ごろに始まった関東の大乱・享徳の乱を背景にしています。日本人がイメージする戦国時代は織田信長の登場以降なので、享徳の乱の時代は馴染みが薄いです。信長の時代との違いはどこにあるのでしょうか。
本郷:では、僕から『叛鬼』の時代を説明すると、関東では上杉とか、長尾とかの名跡(みょうせき)が大切にされていました。上杉謙信の父親の長尾為景は、春日山城を本拠地にした時に「春日山為景」に改名してもよかったのですが、長尾にこだわっています。それが信長の時代になると、名跡があまり意味をなさなくなります。
伊東:我々が考えている以上に16世紀中盤、いわゆる信長の登場以前と以後では、朝廷や幕府の権威に対する考え方が一変しています。とくに東国では朝廷や幕府の権威を重んじていますよね。まず室町幕府の権威が、東国にはずっと残っていたようです。
関東では15世紀終盤まで公方も管領もいまだ力を保っていて、国人や土豪たちが自分たちの所領や権益を庇護してもらっていました。要は下剋上なんてものは無用で、秩序の維持が大切だったんです。それを関東でぶち壊したのが今の群馬県あたりを拠点とした白井長尾家の長尾景春と、今の静岡県、神奈川県あたりを中心に活躍した北条早雲ですが、それでも関東管領山内上杉氏などは根強い勢力を保ち続けていました。
永禄三年(1560)に謙信が最初に関東へ遠征したときも、彼が朝廷や幕府から拝領した権威の数々に平伏すように、十万もの関東国衆が謙信に付き従ったのですから、まだまだ権威は使いようだったわけです。
本郷:そうなんです。だから上杉謙信ほどの武将が、関東管領になりたがる。関東管領が有名無実になっていたことは理解していたと思いますが、周囲の人間にアピールするくらいの力はあると考えていたんでしょうね。
伊東:戦国大名は戦うのが好きなわけではなく、領土を広げたいわけです。武田信玄も信濃守護職にこだわりますし、大名や国人たちは朝廷から正式に拝領した官位官職によって、戦わずして従わせることが優先されました。謙信の場合は関東管領の権威によって東国を静謐に導きたかったのです。