関西と関東での戦に対する意識の違いとは
本郷:先ほど、信長以前、以降という質問がありましたが、信長で時代を切るのは難しく、元亀・天正くらいから権威が必要とされなくなっていきました。『叛鬼』は、まだ権威が生きていた時代に、長尾景春が権威と戦った物語、とまとめると分かりやすいですかね。
伊東:その通りです。とくに景春は権威の内側にいたわけですから、その秩序を壊そうというのは、よほどのことがないとできません。とくに関東の戦いは「やるかやられるか」になることが多く、畿内に先駆けて戦国時代に突入するというのは、必然的な流れだったかもしれません。
享徳の乱が大義を巡る争いであった一方、同時期に京都を中心に繰り広げられた応仁の乱は、家督や権益の奪い合いでした。関西と関東では戦に対する意識が違うようです。
本郷:時代を先取りするコンセプトは関西で生まれ関東に波及していますから、大義をめぐる争いというのは遅れていたと言えます。関東では相手の息の根を止めるまで合戦を続けていましたから、当時の価値観でも野蛮です。応仁の乱の指導者は、皆な畳の上で死んでいますから、ガチバトルではなかった。
伊東:関東では平将門の時代から、関東全域に縦横無尽に馬を飛ばし、あちこちで命懸けの戦いが繰り広げられているイメージがあるので、畿内の戦いとは概念自体が違う気がします。
関東の戦いは荒ぶる鎌倉武士たちの流れを引き、怒りや憎悪といった感情によって相手を倒すまで戦うというイメージですが、畿内の戦いは利害や打算が働いており、馴れ合い的な印象もあります。