判官びいきの感情がはぐくまれた理由
義経は大きな功績があったのに、不幸な最期をとげた。彼の悲劇的な人生をあわれみ、共感をよせる者は少なくない。そんな精神のありようを、いっぱんに判官(ほうがん)びいきとよぶ。
義経は、都で検非違使の尉(じよう)という役職についている。つまり判官になったことがある。義経への同情が判官びいきと言われるのは、そのためである。なお、この言葉は、義経個人への好意をこえてつかわれることもある。弱い立場の人びとを応援したくなる気持ちまでふくめ、そうよばれるようになった。
一種のイディオムと言うべきか。この言いまわしは、国語のなかにとけこんでいる。判官びいきを、一種の民族的な感情だと考える人も いなくはない。そんな心のうごきをも、鳶魚はつぎのように説明する。
「判官贔屓も、稚児(牛若)に対する愛情の延長と見るべきもののように考えられる」(「幸若舞の見物」1925年『三田村鳶魚全集 第二一巻』1977年)
はじめに、悲運の英雄へよせる共鳴があったのではない。幸若舞の舞台では、義経の役が美童により演じられている。のちの国民感情も最初は、彼らの美しさにたいする憧憬からはじまった。そんな土台の上に、判官びいきの感情ははぐくまれたのだという。
能の研究者として知られる増田正造も、似たようなことをのべている。「謡曲の義経」という座談会で、そのことを言っていた。ただし、幸若舞ではなく、能が義経を美しくしたのだ、と。
判官びいきの精神「を生んだのは、お能ではないか」。司会をつとめる半藤一利のそんな問いかけに、増田はこうこたえている。
「中世は美少年愛好の時代でした。美少年が舞台に出ることが大いに好まれたでしょうからね……義経を美少年にやらせたから、判官びいきが生まれたんじゃないでしょうかね(笑)」(半藤一利編著『日本史が楽しい』1997年)
ふたりの見解には、ずれがある。かたほうは幸若舞の美しい演者が、義経像を美しくしたという。もういっぽうは、能役者の美少年が、義経のイメージをかえたとする。その点では一致していない。
だが、どちらも同じ見取図をしめしている。室町時代の芸能は、多く美少年たちによって演じられてきた。舞台の義経も、そんな彼らのはまり役になっている。そのため、義経像は美しくぬりかえられた。やがては、その美貌が判官びいきという民族精神さえ、よびさますようになる。そうのべているところは、つうじあう。
アカデミックな芸能史研究は、こういう解釈をどう評価しているのか。その現状を、私はよく知らない。たぶん、古典芸能をジャニーズなみにとらえる点は、反発を買うと思う。興味本位に語るな、と。しかし、鳶魚や増田がしめした筋途は、検討にあたいする。
とにかく、義経の容姿が美しくなっていくのは、室町時代からであった。そして、室町期に成立した能や幸若舞は、美少年を数多くかかえている。さらに、義経を主役とする演目も、たくさんつくっていた。義経の美化を室町芸能へ関連づける把握には、一定の説得力があると考える。