‘Yoshino ni Shikuza hangan betsuri ga’ by Tsukioka Yoshitoshi.
​(一部)Image via Rijksmuseum Amsterdam
ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第4回は「幸若舞の美童たち」、前回に引き続き「牛若」を取り上げる

前回●源義経は楊貴妃に匹敵する美形か、ひどい出っ歯か…

寵童、美少年がにない手に

平安時代の末期を生きた源義経が、どんな顔立ちをしていたのかはわからない。ただ、室町時代にはいってから、彼を美貌の人としてえがく読み物は、ふえている。

美しさゆえに、寺の僧侶たちから愛された。天狗からも、恋を告白されている。女装のにあう人でもあった。そんな設定の文芸が、ひろく普及する。今なお義経像は、この室町時代がふくらませたイメージとともにある。

義経を美男であったとうらづける同時代の記録はない。鎌倉時代にできた『平家物語』などは、出っ歯だったと書いていた。にもかかわらず、今は美形説が幅をきかせている。室町文芸のつくりだした虚像を、語りついできた。

これは、いったいどういうことなのか。また、なぜ室町時代の人びとは、義経の風采を美しくりっぱにしたのだろう。

江戸風俗の考証で知られる三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)が おもしろい解釈をほどこしている。鳶魚は言う。義経をとりあげる芸能の多くは、幸若舞(こうわかまい)の演目になっていた。その幸若舞をささえたのは、室町時代の稚児である。寺僧たちにかわいがられた寵童、美少年がにない手となっていた。義経らが美化されたのは、そのためである、と。

江戸時代の浮世絵師・一筆斎文調が描いた牛若
‘Ushiwaka-maru on the Gojo Bridge’ by Ippitsusai Buncho.
Image via Art Institute of Chicago