男色におぼれたのは、あなたの容色にまいったせい

つづいて、義経が登場する江戸時代の文芸を、いくつかのぞいてみよう。

まずは、近松門左衛門の『十二段』から。浄瑠璃の語り物で、初演は1690年だったという。今、紹介した『浄瑠璃御前物語』を骨子として、話はくみたてられている。

作中、女たちは「うし若」を見て、ほれぼれする。「美しさ尋常さ絵にも及ばぬ御風情……いとあてやかなる御容(かたち)……世界の器量を一つにして……も、いつかなゝ「届くまじ」(『近松全集 第三巻』1925年)。絵にもかけないほど美しく、またりっぱである。世界中の美形をあつめ、ひとつにしても、牛若ほどのことはないという。

女たちだけが、ときめいたわけではない。鞍馬山の天狗も、この美少年には脳殺されている。近松は天狗の口から、つぎのような告白を牛若へつげさせていた。「君が色香に魔道を失ひ衆道の巷(ちまた)に迷ひし故……」(同前)。自分が男色におぼれだしたのは、あなたのあでやかな容色にまいったせいである、と。

歌川国芳の描いた皆鶴姫と牛若丸。「源氏雲浮世絵合 匂宮」1846年 
出典:国立国会図書館デジタルセレクション

江島其磧(えじま・きせき)の浮世草子である『鬼一法眼虎の巻』(1733年)も、見てみよう。鬼一はいわゆる軍師だが、娘の皆鶴姫は牛若を一目で好きになる。「美童の形類なければ、皆鶴姫心をうつされ……」と、作者は事情を説明する(『其磧自笑傑作集 下巻』1894年)。群をぬく美少年であったというのである。

曲亭馬琴も『俊寛僧都島物語』(1808年)という読本で、牛若の美貌を書きたてた。女に見まがう、女にしてみたいと、随所でのべている。「花の精」にたとえられた美少女の舞鶴とならんでも、見おとりはしない。そんな牛若の様子を、馬琴はこう描写する。

「御曹子はまた……女にして見まほしきに、立ちならびては、花の傍(かたへ)なる花になん、劣らず勝らず見え給ふ」(『古典叢書 滝沢馬琴集 第四巻』1889年)

舞鶴は、花のように美しい。牛若もまた、花のようである。いずれがアヤメか、カキツバタ、と言わんばかりの文章になっている。

「俊寛僧都島物語 上」(滝沢馬琴・著 明治16年刊行 金桜堂)より
出典:国会図書館デジタルコレクション