死ぬことは隣の部屋に行くようなもの?
しかし、このような現象的なことはたいしたことではなく、もっと大変なことが起こると千石さんは言うのです。罪のために生命が有限化されてしまった人間のあり方から解放されて、無限生命の状態に移されるのだと。人間はある時がきたら死ぬものだと誰もが思い込んでいるのだけど、それは思い込んでいるだけで、人間の本当のあり方とは違う。「いのち」は本来無限のものなのに、罪のために有限化されてしまった。その状態から、元の無限状態に変わると言うのです。死なないことが本当なのだと。
イエスを生活していると、肉体を持っている間に無限生命を自分の実感として受け取らされる、自分は死なないんだと本当に得心できるようになるということですが、そんなことを言いふらしていたら、「ほんまに頭ヘンなのとちゃうか」と人から言われると千石さんは言います。確かに常識から考えたらあり得ないことですからヘンに思われて当然です。
千石さんの聖書解釈は常識とは真逆です(真逆にならざるを得ないといったほうがいいのかもしれません)。ぼくは常識人だけど、その常識から解放されたいという気持ちがあるから、千石さんに惹かれたのかもしれません。
こんなことを書いているぼくも、人間はある時がきたら死ぬものだと思っていたので、千石さんの話を聞いてびっくりしたのでした。どんな人にも寿命があって、寿命がきたら死んでしまうというのはごくごく普通の考えで、どんなに成功した人でも、成功できなかった人でも、同じように死ぬ時はやってくるのです。「人間、どうせいつかは死んでしまう」ということが、生きて行く上での憂うつの根源ではないかと思っていたのでした。
しかし、イエスを生活するということはなかなか難しいことです。当然、ぼくは罪の中にいるわけですから、人間は死なないということを実感として感じられません。だから理屈として考えることしかできないのです。
千石さんは、「死ぬことは隣の部屋に行くようなものです」と話したことがあります。その言葉を聞いたのは1回だけでしたが、その意味も聞いておけばよかったと後悔しています。
ヒントはその言葉だけなのですが、その言葉から想像すると、まず霊のようなものがあり、その霊が肉体に宿り、肉体が消滅しても肉体から離れた霊は存在しているということではないかと思うのです。あのイエスがそうであったように。
もしそうだとすれば、肉体という厄介なものから抜け出て、自由に何処へでも飛んで行けて、受信できる感性を持っている人とコンタクトもできると考えれば、死んでも悪くないなと思えるのです。それが実感でなくて、想像でしかないのが残念ですけど。