深夜になるまでピアノに向かうことも

ですから59歳でドイツから帰ってきた時、日本での音楽のあり方が少々おかしいと感じることがありました。たとえば日本では「あなたのお子さん、まだハイドン?」「うちはもうモーツァルトなのよ」というふうに、年齢や習熟度で習う曲を決める風潮がある。それは本当にもったいないと思うのです。

先日の100歳記念コンサートでも弾いた、「エリーゼのために」もそう。ベートーヴェンの名曲ですが、日本では子どもが発表会で弾くような曲と思われていないでしょうか。実は私もそんなイメージだったのですが、あるドキュメンタリーで、イタリアの老人ホームに暮らす女性ピアニストが不自由な手で弾く「エリーゼのために」に、思いがけず感動しました。その美しく、温かな音色。これほど素晴らしい曲だったのか、なぜ私は今までそれに気づかなかったのかと衝撃を受けたのです。

解説を交えながら「エリーゼのために」を弾く室井さん。曲想が変わるたびに違った 景色が目の前に広がるような豊かな表現力と、繊細な響きがいつまでも心に残る

そこから私は、以前よりもっと深く楽譜を読み込むようになりました。ドイツ語にはムジツィーレンといって、直訳すると「音楽する」という言葉があります。音楽は音で作った詩であり、小説であり、戯曲です。楽譜を通じて作曲家が何を伝えたいのかを読み解き、表現につなげていく。たとえば「エリーゼのために」の導入部、オクターブでふわっと音が上がっていく部分に私は「白いカーテンが開いて外の光が入る景色」を感じ、それを表現したいと考えました。

さらにそれを指に伝え、思った通りの音を出すには、毎日の練習が欠かせません。この弾き方のほうが美しいかもしれない、作曲家はこういう音を求めていたんじゃないかしらと考え始めたら止まらなくなって、つい深夜までピアノに向かってしまいます。

音でいうと特にピアニシモ(ごく弱く)といった弱音は、鍵盤の奥までしっかり芯を通さないと良い音は出ないのね。この手の動きと響きが完全に結びついたところに、今の私のピアニシモが生まれる。若い時とも、80歳の時とも違う、100歳になったからこそ出せる音があると思っています。

そうして耳を使い、頭を働かせ、指を動かすという繰り返しが健康にいいのだという人もいます。70代で肺がんにかかり、90代で大腿骨を骨折して手術や入院も経験したけれど、「帰ってまたピアノを弾きたい」という思いで乗り越えてきました。思えば90年以上、毎日ピアノを弾くというシンプルなことが、私の生きる力を支えてきたといえるかもしれません。