『義経知緒記』は出っ歯の評判を山本義経へおしつけた

江戸時代のなかごろには、そう考える人もあらわれた。たとえば、『義経知緒記』に別人説の、こんな指摘がある。

山本義経の「ムカ歯指出タルヲ同名ナレハ大夫判官義経ト云誤タルニヤ」(『軍記物語研究叢書 第四巻』2005年)。歯がでていたのは、山本義経のほうではないか。だが、その評判は同姓同名の源義経へ、飛火した。おかげで、牛若の義経は、出っ歯説のまきぞえをくらったのかもしれない。

そう書きつつ、『義経知緒記』は源義経の美形説を温存する。「義経ハ云伝如ク美男ノ若キ人也」(同前)。いろいろな伝承の言うとおりで、若い美男子だったときめつけた。この美男説を死守するために、出っ歯という評判を山本義経へおしつけたのだろう。

源義経と山本義経の人物像に、後世からとりちがえられた部分は、あったかもしれない。しかし、美しかったのは源義経のほうだったときめつけるのは、不公平である。

山本義経こそが、絶世の美男であった。そちらの可能性もある。彼の評判は、同姓同名の源義経にまでおよび、そのイメージをかえていく。源義経は、山本のお相伴にあずかるような形で、美化されていった。その筋道も、ぜったいにありえないとは、言いきれないのである。

だが、『義経知緒記』は牛若ばかりを、美形の武将としてもちあげる。山本義経のほうは、源義経に風評被害の累をおよぼした張本人としてのみ、位置づけた。牛若の義経を、出っ歯にしてしまったのはこいつだろう、と。

牛若丸に双六で負けた弁慶の図。江戸時代後期の浮世絵師・魚屋北渓が描いた。
‘Ushiwakamaru (Minamoto no Yoshitsune) defeats Benkei in a game of sugoroku’, 1825 by Totoya Hokkei. Image via Art Institute of Chicago

弁慶が源義経の下についたのは、その美貌にほれこんだせいかもしれない。そんな解釈を、はじめて世に知らせたのも『義経知緒記』であった。そして、この本は山本義経を出っ歯の当事者とする点でも、ほかの著作に先行する。

書き手が誰だったのかは、わかっていない。一冊にまとめられた時期も、不明である。元禄期(1688-1704年)の著述であろうと言われているにとどまる。

ただ、源義経像の創案においては、画期的な役割をはたしていた。弁慶の義経愛という構図を、ひねりだしただけではない。『義経知緒記』は、山本義経を史料のなかから、さぐりあてた。源義経との区別があいまいになりうる人物を、見つけている。しかも、実在の人物を。そして、この発見は、後世の義経語りへ大きい影響をおよぼした。