魚屋北渓が描いた笛を吹く牛若。
‘Ushiwaka Playing a Flute’(一部), 1830, by Totoya Hokkei. Image via Los Angels Country Museum of Art
英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第6回は「もうひとりの義経は」、前回に引き続き「牛若/義経」を取り上げる

前回●近松、馬琴も…江戸文学は義経の…

美しい義経と出っ歯の義経は、別人?

山本義経という武将を、ごぞんじだろうか。源平合戦の時代を生きた、実在の人物である。近江を拠点として、平家に叛旗をひるがえした。源氏の武人として、参戦してもいる。

この義経は、源義光の跡をつぐ、その五代目でもあった。その意味では、源義経とよんでもかまわない。じじつ、現行の『国史大辞典』は彼のことを「源義経」として、登録させている(第十三巻 1992年)。

ただ、そう書いてしまうと、話が混乱しかねない。牛若の義経と、区別がつきにくくなる。この連載では、近江の義経を山本義経としるすことにする。源義経の名は、もっぱら元服後の牛若へあてることにしておきたい。

さて、山本義経は源頼朝のもとへかけつけ、協力をもうしでた。1180年12月10日のことである。じつは、源義経も頼朝との初対面を、同じ年にはたしている。10月21日に、兄の前へでむいていた。山本義経が頼朝と対面する、その50日ほど前に。

山本義経の生没年は、よくわからない。ただ、どちらもほぼ同じころに、頼朝のところへ参上した。ともに、打倒平家の志をいだいている。同姓同名にもなりうる。後世の者が混同しかねない要素は、あったと思う。

明治以降の本に描かれた源頼朝と義経の対面シーン 『新編お伽噺. 牛若丸』福田琴月・編、修文館、1901年
国会図書館デジタルコレクション

想いだしてほしい。源義経の容姿については、美形説と出っ歯説のふたつが、語られてきた。室町時代には、10歳代までを美少年、20代末からを出っ歯とする見方が浮上する。少年期の義経と中年期の義経を、別人ででもあるかのようにわけてしまう。そんな義経語りが、一般化した。

ひょっとしたら、そのどちらかは山本義経だったのかもしれない。美しい義経と出っ歯の義経は、別人だったんじゃあないか。