源義経は背が低く、色黒、出っ歯の奥目であった
さきほど、『傍廂』という文集が、山本義経の出っ歯説に加担したことを書いた。その『傍廂』に、たいへんおもしろい記述がある。著者の斎藤彦麿はおさないころ、源義経にかかわる子どもの俗謡を、しばしば耳にした。山本義経の出っ歯説にくみしたのは、これを否定するためであったという。よく聞かされたというのは、こんな唄であったらしい。
「我幼き頃、京都より伊勢、尾、参、遠あたりの小児らが言いぐさに、源九郎義経は、脊低く、色黒く、向歯反て、猿眼と謡ひしなり」(前掲『日本随筆大成 第三期第一巻』)。京都から東海道ぞいの子どもたちは、よくうたっていた。源義経は背が低く、色黒、出っ歯の奥目であった、と。
これらの文句は、幸若舞の『富樫(とがし)』や『笈捜(おいさがし)』に源流がある。北陸からの脱走をねらった源義経を、両演目は出っ歯や奥目と見下した。それが、江戸末期の子どもたちにとどいている。市中では、すっかり下火になった。そんな幸若舞の文句が、形をかえ生きのびている。この芸能には、意外な生命力があったようである。
ただ、「向歯反つて、猿眼」という『富樫』は、同時に「色の白き」もうたっている(『新日本古典文学大系 59』1994年)。『笈捜』も、「背小さく、色白く、向歯そつて猿眼」としていた(同前)。
これが、斎藤の耳になじんだ俗謡では「色黒く」へ、かえられている。幸若舞の『富樫』なども、顔の色に関する文句は、わすれられたということか。出っ歯や奥目を、子どもたちはうたいつたえている。そして、それらの悪口にひきよせられたのだろう。子どもたちは、顔の「色白」まで、「色黒」にしてしまったようである。