史実にそくした芝居をこころみた九代目市川団十郎
江戸文芸は、『平家物語』や幸若舞の出っ歯説に目をそむけた。ひらすら、美形説でおしきっている。私はそうのべてきた。
たしかに、文字化された文芸を読むかぎり、出っ歯説は影をひそめている。しかし、文字になりづらい子どもの口承世界は、醜形説を語りついでいた。ジャイアント馬場を知らない今の子どもが、遊びで「馬場チョップ」をするように。
江戸時代のなかごろには、『笈捜』の出っ歯や猿眼はわすれられていた。義経の伝説に関する大著をあらわした島津久基は、そうのべている(『義経伝説と文学』1935年)。しかし、かならずしもそうではなかったことを、のべそえたい。
明治期に、歌舞伎の九代目市川団十郎は、史実にそくした芝居をこころみようとした。源義経の役も、「色黒く其上(そのうえ)出歯」の役者にやらせようとしたらしい。しかし、営業面での自信がいだけず、沙汰やみになったという(『東京日日新聞』1885年5月11日付)。
どうやら、当時の団十郎は思いこんでいたようである。平安時代末期を生きた源義経は、「色黒」の「出歯」であった、と。
団十郎の源義経像も、幸若舞の『富樫』などに由来する。これを、幕末の子どもたちが、顔の色だけは反転させた評価に、ねざしていた。「色黒」とある以上、団十郎の脳裏をよぎったのは、そういう像だと言うしかない。『傍廂』の斎藤彦麿が聞いた俗謡も、1880年代ごろまでは、生きていたようである。
醜形にすれば、歴史の真相へせまれると、団十郎は思ってしまったのだろうか。いずれにせよ、「色黒……出歯」の源義経像は、みのらない。歌舞伎にかぎらず芸能や文芸のキャラクター設定は、美形の一方向へながれていく。九代目のころまでとどいていた「色黒」も、20世紀以後は雲散霧消するのである。
※次回の配信は10月27日(水)予定です