源義経は美しかったと思いたがった、その執着ぶり

もちろん、出っ歯は山本義経とする見方に、なびかなかった者もいる。博識で知られる喜多村信節(きたむら・のぶよ)が、そちらへくみする人びとを批判した。幕末期にだした『イン庭雑録(インは竹かんむりに均)』で、学者らしく彼らのことをたしなめている。

出っ歯を「山本兵衛義経の事也といへるは、拠ところなき不稽の説なるべし」。『平家物語』などは、源義経の「向歯そりたることをいへり」(『続燕石十種 第二巻』1927年)。山本義経の出っ歯説に、根拠はない。源義経こそ出っ歯だったと、『平家物語』はのべている。そう書いて、世の山本義経=出っ歯説を、しりぞけたのである。

江戸期の文芸は、源義経を美しい英雄の代表として、まつりあげた。『平家物語』の出っ歯説などは、うけいれなくなっている。だが、公的な歴史書は出っ歯説を堅持した。美形説を文芸、そして出っ歯説を歴史書がささえる時代に、江戸期はなっている。そのことを前にのべた。

魚屋北渓が描いた笛を吹く牛若。
‘Ushiwaka Playing a Flute’, 1830, by Totoya Hokkei. Image via Los Angels Country Museum of Art

しかし、歴史を語る文人のなかに、文芸よりの論じ手が、いなかったわけではない。彼らは、史料のなかから山本義経を見つけだす。そして、出っ歯の役割を彼にになわせようとした。かたがた、源義経の美形説を、歴史語りのなかでもたもたせようとする。この時代が、源義経は美しかったと思いたがった、その執着ぶりを読みとれよう。

山本義経には、なんとも気の毒な事態である。彼が出っ歯であったことをしめす歴史的な記録は、ひとつもない。なのに、江戸中期からは、しばしば出っ歯だと書きたてられた。源義経の美形説を、なんとしても延命させたい。そんな衆望の餌食となり、出っ歯よばわりをされつづけたのである。