両者がとりちがえられるのも、無理はない?

たとえば、1712年に『義経勲功記』がまとめられている。あらわしたのは、通俗軍記の著者として知られる馬場信意である。この読み物も、源義経の出っ歯説を否定した。そして、そう論じるくだりで、山本義経に言いおよんでいる。つぎのように。

源義経には出っ歯だという噂があった。『平家物語』に登場する越中次郎兵衛も、平家の仲間へそうつたえている。しかし、これは「大ナル人違ヘニテ候。其(ソレ)ハ近江源氏ノ山本九郎義経ニテ候」、と(同前)。出っ歯だったのは、山本義経である。越中らは、人ちがいをしている。そう馬場信意は書ききった。

一箇所だけではない。『義経勲功記』は著作のそこかしこで、この話をむしかえす。「向フ歯ノ指出タル」は、「山本九郎義経ナルコト明ラケシ」(同前)。出っ歯は、あきらかに山本義経のほうだと、断言してもいた。先行する『義経知緒記』は、山本義経だったろうと言うにとどめていたのだが。

また、『義経勲功記』は山本義経のことを、「山本九郎義経」と表記した。この点については、『義経知緒記』も同じ書きかたをしている。どちらも、九郎義経の「九郎」を、山本の名前におぎなった。しかし、じっさいに山本義経が「九郎」だったのかどうかは、わからない。

山本義経の名は、九条兼実の『玉葉』という日記にでてくる。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にも、その名はのっている。だが、どちらも「九郎」とはしるしていない。

彼の名に「九郎」をそえたのは、『義経知緒記』の書き手である。牛若と山本はともに源氏の源義経であり、混同されやすい。そのまぎらわしさを、『義経知緒記』はよりいっそう誇張したかった。そのため、山本義経まで「九郎」にしてしまったのだと考える。そして、『義経勲功記』も、この詐術を踏襲したのだろう。

江戸時代の後期を生きた文人に、志賀忍という人がいた。幕臣でもあったが、1837年に『理斎随筆』という文集をだしている。なかに、源義経の容姿へ言及したくだりがある。やはり、出っ歯は山本義経で、源義経だとするのは人ちがいであると、書いていた。

さらに、志賀は読み手へこううったえかけている。「判官も源氏山本も源氏、彼も九郎是も九郎、彼もよし経(つね)是もよし経」、と(『日本随筆全集 第一二巻』1929年)。どちらも、「源氏」であり「義経」である。おまけに、「九郎」というところまでつうじあう。だから、両者がとりちがえられるのも、無理はないという。

幕末の『傍廂(かたびさし)』(1853年)という文集にも、同じ指摘がある。いわく、源義経を出っ歯だとするのは、「大なる誤」である。それは、「山本九郎義経の事」であった。「両人同時にて、九郎義経なれば紛ひしなり」と、誤解の原因を説明する(『日本随筆大成 第三期第一巻』1976年)。

『理斎随筆』と同じで、山本義経も「九郎」だとするフェイクを信じている。『義経知緒記』がしかけた罠に、ひっかかっていた。この本は後世の文人たちを、けっこう手玉にとったようである。