娘のテディベアにお金をしのばせて渡米

テンプル大学の生化学科が、ポスドク(博士課程修了後の任期付き研究職)として正式に職と研究の場を与えてくれるという、嬉しい知らせだった。とはいえ、当時のカリコ氏にとって、アメリカはまだ見ぬ未知の国。しかも、エンジニアの夫と2歳の娘という家族がいたし、設備の整った新しいマンションに引っ越したばかりというタイミングだった。

それでも、カリコ氏はアメリカに渡ることを即決した。

「かつてのハンガリーでは、より自分が成功できる環境を求めて、多くの優秀な人材が海外に出ていきました。私自身は家族と離れるつもりはなかったですし、母や姉もいましたから、帰りたいと思ったときにいつでもハンガリーに帰れる状態でいたかったんです」

「海外で生活をするには、パスポート(旅券)やビザ(査証)などの書類が必要になりますよね。当時のハンガリーは自由に海外渡航ができる国ではありませんでしたから、パスポートやビザをとるには、それなりの理由が必要でした。ソ連の影響下にありましたし、しかも行き先はソ連と対立関係にあるアメリカ。でも、大学で研究をするという正式なオファーですから、家族も一緒に出国許可を得ることができたんです」

行き先は決まった。正式に出国許可もおりた。次なる課題は資金をどうするか、ということだった。当時のハンガリーでは、個人が所持できる外貨は100ドルまでと制限されていた。つまり、それ以上は換金できないし、持ち出すこともできない。

100ドルといったら、日本円にして(当時)およそ2万円。家族3人でアメリカに渡るにはいくらなんでも少なすぎる金額だ。

「闇で車を売ったりして何とかお金を集めたものの、換金が認められてなかったのでとても苦労しました。実際には100ドルでなく、1000ドルを持っていきました。でも、見つかったら一巻の終わりです。そこで、お金をビニール袋に入れて、それをテディベアの背中を切ってしのばせました。そのテディベアを娘に渡して出国したわ。だから、実際にお金を密輸したのは私の娘であって、私たちではないのよ。今だから笑って話せるけれど、本当に怖かった。アメリカに到着するまで、娘とテディベアから目を離さなかったわ」(カリコ氏)

1984年、カリコさんの長女スーザンさんとテディベア(『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』より)

こうして、テンプル大学のあるフィラデルフィアに移住したカリコ氏一家。提示された年俸は1万7千ドルだった。当時の日本円にすると340万円。

「年俸1万7千ドルなんて、家族で何とか食べていける程度の額でしかない。チケットは片道しかありません。研究を続け、生き残っていくためには、アメリカ社会にできるだけ早く溶け込まなければならなかった。ドルで食べるものを買わなきゃならない。クレジットカードだって持っていないし、(1985年当時は)携帯電話なんてなかった。しかも、誰も知っている人はいない。私を雇ってくれた大学の人すら知らなかったのですから。その後、私の母もアメリカに来ることになるのですが、ハンガリーでエンジニアだった夫は、まさにゼロからのスタート。清掃などの仕事から始めました」