信頼していた上司からの「嫉妬」

ポスドクとしてテンプル大学で働いていた1988年。カリコ氏の元にジョンズ・ホプキンス大学から仕事のオファーが舞い込んだ。

ジョンズ・ホプキンス大学といえば、世界屈指の医学部を有し、アメリカでも最難関の大学のひとつだと評判も高い。公衆衛生部門の研究でも有名で、今回の新型コロナウイルスのパンデミックに関する研究やデータ分析・発表なども行っている。

このオファーの話を知ったカリコ氏の上司が「ここ(テンプル大学)に残るか、それともハンガリーに帰るか」という二者択一の選択を彼女に迫った。明らかに同じ研究者としての嫉妬である。「何でそんなことを言われるのか。信頼していた上司だっただけに、とても落ち込んだ」とカリコ氏も言っているが、実際、彼女の元には国外退去の通知まで届いたという。しかも、その間、上司はジョンズ・ホプキンス大学に対して、カリコ氏への仕事のオファーを取り下げるよう手をまわしていたのだ。

「彼は教授で、私は何の地位もない人間でしたから、仕事もすべて失って、とても困難な状況に陥りました。でも、その上司にも敵(ライバル)がいることがわかったので、その人たちのところに駆け込んで、助けてもらったのです。人生は想定外なことばかりですよね」

やむなくテンプル大学を辞したカリコ氏を救ってくれたのは、日本の防衛医科大学校のような組織の病理学科だった。B型肝炎の治療に必要なインターフェロン・シグナルの研究をはじめ、ここで1年間、分子生物学の最新技術など多くのことを学んだ。

その後、1989年、ペンシルベニア大学の医学部に移籍し、心臓外科医エリオット・バーナサンのもとで働くことになった。この時の彼女のポジションは、研究助教で、非正規雇用の不安定な立場だった。そのうえ、もらえるはずだった助成金ももらえなかった。

「決して条件のいい移籍じゃなかったわ。翌1990年の私の年俸は4万ドル(当時のレートでは、日本円で約640万円)。20年経っても、6万ドル程度でした」

「だから、娘には、『あなたが進学するには、ペンシルベニア大学に行ってもらうしかない』と言ったのよ。なぜって、教員の子どもは学費が75%引きになるから」(カリコ氏)。研究が続けられれば、それでいい。カリコ氏の考え方は一貫している。

「自分のやっている研究は、とても重要なことなんだと信じていました。たとえどんなことがあっても『人の命がかかっている、とても大事なこと』と思っていたのです」