「自分が苦しんだから相手の気持ちが分かる」と思わない
僕は自分が苦しんだから、相手の気持ちがわかると思ってません。そうではなく、僕の相手、それは鬱状態の僕なのですが、その人が苦しんだところと共通するところを探し、そこだけは経験があるから担当できると思ってます。そして、さらに僕自身が完治した後も、死にたい人は、ある時期の鬱状態の僕のように繰り返し僕のところに電話をかけてきます。心の絆があるのでしょうか。否定はできませんが、肯定もできません。
僕はどこかでとても境界をはっきりさせてます。僕のプライベートまで崩そうとは思いません。でも同時に、僕はプライベートな空間の中ですらいのっちの電話をうまく切り分けつつ実践できるように技術を高めてきたつもりでもあります。共感ではなく、自分が経験した部分だけをうまく見つけ出そうとしているに過ぎません。それは声だからできます。
最近ではメールでもできます。解離している人たちとも声とメールだけではやりとりできるのですが、それと似たところがあるのでしょうか。僕は人に会うと、途端にやる気がなくなってしまいます。いのっちの電話の能力もうまく引き出すことができません。とは言いつつ、人前でいのっちの電話のようなものを公開して行った時はそれなりに効果があると思いました。
僕がいのっちの電話を受けるときに、大切にしている姿勢はこれでうまく説明ができたでしょうか?
もっとなんでも聞いてください。僕も自分のことがよくわからないからです。聞かれたら、少しだけ僕はそれを知ることができます。
長くなってしまいましたが、このへんで。またお便り楽しみに待ってます。
※本稿は、『いのっちの手紙』(著:斎藤環、坂口恭平/中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『いのっちの手紙』(著:斎藤環、坂口恭平/中央公論新社)
双極性障害の当事者である坂口恭平さんと、精神科医の斎藤環さんのスリリングな往復書簡。人が人を助けるとは、どういうことなのか? 12通の、いのちをめぐる対話の記録。