「死なない方法を一緒に考える」という行為について

記憶は体のどこかに残ってはいるとは思います。でも、死にたいと感じていることの経験を応用していることも確かです。

元々、幼少の頃からお節介かもしれないが困っている友人を助ける人格が自分の中にいるのですが、その人格がいのっちの電話をやっているのではないかと僕は感じています。僕自身、解離が起きているのではないかと思ってます。実際に、解離性同一障害であると疑われる人たちとも僕はコンタクトをとってます。定期的に。今も、そのうちの一人から電話がかかってきました。

自分のなかに「困っている友人を助ける人格」がいるという坂口さん(写真:写真AC)

彼は三人の人格があり、そのうちの二人の別人格と僕は一ヶ月ほどずっと連絡をとっているのですが、僕が描いた絵がなぜか彼らの記憶の風景とつながっていて、さらに、そのうちの一人の少し攻撃的だった人格の人には僕の小説『現実宿り』の四七章を朗読して読み聞かせたところ、彼が感じていること、彼の言葉がそのまま言語化されているとその人は言いました。

僕は驚きましたが、この小説を書いている時、僕は誰の声かわからなかったのですが、ただ何も考えず、つまり、自分の頭の中にはっきりとその言葉があったので、迷わず書いていたのですが、それがその人の言葉だったとはどういうことなんだろうかと考えつつ、そうやってその人が自分の言葉と感じてくれて、とても嬉しかったです。書いて良かったと思います。

僕はただいのっちの電話で死にたい人に死なない方法を伝えているわけではないんだと思います。この電話に出て、一緒に死なない方法を考える行為自体が、僕にとって、そしてその人にとっての創造行為になっている可能性も僕は否定できません。