もしかしたら死にたい人にとって有害なのかも

「だから僕は、現場主義を信用しません。自己流の「野生の治療者」はしばしば当事者にとっても有害な存在になりえます。そういう人にはしばしば、独特の「鈍感さ」の印象があります。荒砥石のような現場の力で、心のうぶ毛(精神科医・中井久夫氏が提唱した、人が心に持つ繊細な感性)がすり切れているとでもいいましょうか。恭平さんにはそれがない。もしそんなに鈍感だったら、ほかの創作活動が続くわけがない」

こう環さんはおっしゃいましたが、そう言われると、ドキッとします。もしかしたら僕は死にたい人にとって有害かもしれない。そう思う時もなくはありません。

でも電話はつながらないのです。僕が辞めたら、他のところにつながることはかなり難しくなります。それなら、まだマシではないかとも思いますが、まだ自信はありません。かと言って、止めるのも簡単ですが、止めようとも思いません。ましてはこの行為でお金なんかもらおうとすら思いません。

お金をもらわないと完全に決めることも僕の中では重要です。過ちを犯す人はお金をもらっていることが多いと僕が思っているからです。しかし、僕の突飛な議論の仕方は鈍感な証拠かもしれません。しかし、実際にそんなふうに言われたことはあんまりないです。訴えられたこともありません。ツイッターで文句を言われることもありますが、その人が生きていることが確認できて一応ほっとします。

でも僕はインターネット上で死にたいという人に絡まないようにしてます。その人自身が何か罠に嵌められるかもしれないと心配するからです。だからそう言った声は静かに聞いているつもりです。

死にたいという人の声は静かに聞いている(写真提供:写真AC)

文句を言われたとしても、それよりも、生き延びた、死にたいとは思わなくなった、私は助かった、ありがたい、だからやめないでくださいと言われることが何倍も多くあります。それは僕としては続けてきて良かったなと嬉しくなる瞬間です。何人かの助けになっただけでもいいじゃないかと自分を慰めることもあります。

でも文句を言われて、ムカついたりすることもありません。ムカつくことがないと断言するのは嘘かもしれません。ムカつくことはありますね、やっぱり。でも、傷ついたことはありません。でも、鈍感に無視しているつもりもありません。

ユングの言う「傷ついた癒し手(心に傷を持つ人のほうが、心理支援には能力を発揮しやすい、という考え。Wounded Healer)」なのかどうかは僕はよくわかりません。それは躁鬱病自体が、鬱の時と躁の時と感情記憶が繋がっていない解離の状態になっているからです。僕は自分が傷ついたからこの行為ができているとは思っていません。もちろん一つの要因ではあると思いますが、それとは違うと思います。