皇子のヤマトタケルを各地へおくりこむ

だが、その前に『古事記』や『日本書紀』の具体的な記述へ、目をむけたい。上代を代表するふたつの歴史叙述は、それぞれヤマトタケルをどうえがいたのか。そこを見どとけたうえで、今のべた課題は考えよう。

『古事記』と『日本書紀』の書きかたは、少なからずくいちがう。同じように、ヤマトタケルの女装をえがいてはいる。しかし、叙述ぶりは、かならずしも一致しない。ここでは、両者の差違にも気をくばりながら、話をすすめよう。

ヤマトタケルは、景行天皇の皇子であったということになっている。実在したとは、みなされていない。架空の人物であろうと、考えられている。

いっぽう、景行天皇は、第12代目の天皇として登録されてきた。そして、この天皇はほんとうに、即位していたかもしれない。奈良の纏向(まきむく)で、4世紀に君臨していた可能性はある。ねんのため、書きそえる。

記紀の景行は、皇子のヤマトタケルを各地へおくりこんでいる。王権にしたがわない地方勢力を、平定するためである。クマソを征討するさいに、皇子は女装で彼らを籠絡した。この逸話も、景行から命じられた九州遠征をのべるくだりに、おさめられている。

なお、この皇子は、もともとオウスノミコトと名づけられていた。クマソの前では、ヤマトオグナ、つまりヤマトの男子だと名のる場面もある。いずれせよ、ヤマトタケルと、皇子がはじめから命名されていたわけではない。それは彼があやめたクマソの族長から、あとでもらったよび名である。